宇都宮徹壱ウェブマガジン

徹一から徹壱へ──徹マガ版『私の履歴書』 第9回ダイヤモンド・サッカーとの出会い(1993~94年)

ごくごく凡庸な高校生であった宇都宮徹一が、どのような経緯を経て現在の「宇都宮徹壱」となったかを振り返る当連載。今回は人生最初の(そして唯一の)転職活動の日々と、サッカー業界への入り口となった制作会社エンジンネットワークの思い出について語る。連載から9回目にして、ようやく今いる業界の入り口に立つこととなった私であったが、そこで待ち受けていたのは文字通りの悪戦苦闘の連続であった。

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(C) Haruko Utsunomiya

■日本を飛び出して人生をやり直すという選択肢

1993年(平成5年)の秋から冬にかけての私は、映像館という映像制作会社に勤務しながら、密かに転職先を探す毎日であった。もっとも、職歴わずか2年で社会的なスキルもナレッジも低く、学歴と年齡ばかりが高い藝大出の男を受け入れてくれる企業など、そうそうあるわけではない。そもそも私自身、業績悪化で迷走著しい会社を離れる決断はしたものの、「こういう仕事をしたい」とか「こういうスキルを身につけたい」といった具体的な目標がまったく見つからないまま、なんとなく転職先を探しているような状況だった。今にして思えば、最もやってはいけない転職のパターンだったと思う。

それでも、その年の秋も深まるころ(すなわち『ドーハの悲劇』の直後くらい)には、大きく2つの方向性に絞ることができた。ひとつは別の制作会社に移って、もう少し映像の世界で頑張ってみること。もうひとつは思い切って日本を飛び出し、新たな世界でチャレンジすることである。実はこの時期の私は、JICA(海外青年協力隊)に入ってポーランドで働くことを密かに画策していた。JICAといえば、主な活動範囲は東南アジアや南米、アフリカである。しかしこの頃は、民主化して間もない東欧諸国でもわずかながら求人があった。ポーランドでの求人は、クラクフにある美術館の学芸員というものだった。

かつてはポーランド王国の首都が置かれたクラクフは、第2次世界大戦の戦禍を奇跡的に免れた、中欧有数の観光都市である。そして当地にあるクラクフ国立博物館は、歌川広重、葛飾北斎、喜多川歌麿などの浮世絵コレクションで有名であった。そのため博物館では、日本人の学芸員を必要としており、JICAに求人の要請があったというわけである。母校の藝大経由でこのことを知った私は、どん詰まりの状況を何とか打開したいという思いと、ほのかな東ヨーロッパへの憧れから、選抜試験にエントリーすることにした。

実家の両親は、私の決断を意外なほど喜んでくれた。それまでよくわからない仕事をしていた長男が、ようやくまっとうな道を歩もうとしていると思ってくれたらしい。そんな両親の期待を背に臨んだ筆記試験は無事にクリアし、最終面接の4人のひとりに残ることができた。面接の感触も悪くはなかった。しかし93年のクリスマスの頃に受け取った通知は「不合格」。もちろん、結果には大いに落胆した。逆にもし合格して、ポーランドで浮世絵の学芸員になっていたら、その後はどんな人生を歩んでいただろうと今でも時々考える。いずれにせよ、日本を飛び出して人生をやり直すというほのかな夢は、あっけなく潰えることとなった。

(残り 4000文字/全文: 5312文字)

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