宇都宮徹壱ウェブマガジン

第10回 「写真家宣言」への道(1995~96年) 徹一から徹壱へ──徹マガ版『私の履歴書』

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(C) Haruko Utsunomiya

ごくごく凡庸な高校生であった宇都宮徹一が、どのような経緯を経て現在の「宇都宮徹壱」となったかを振り返る当連載。第10回となる今回は、最後の勤め先となったエンジン・ネットワークでの日々と、2002年ワールドカップが日韓共催となった時の出来事、そして映像業界から離れて写真家になる決断を下すまでの経緯について語る。

■1995年という時代と『BSワールドサッカー』

1995年(平成7年)、私は29歳になっていた。そして相も変わらず、映像業界でしがないAD(アシスタント・ディレクター)暮らしを続けていた。そんな中、国内を揺るがす(さらには世界の注目を集める)災害や事件が連続して起こった。1月17日未明には、6434人が犠牲となった阪神・淡路大震災が発生。さらに3月20日には、東京のど真ん中の地下鉄車内で神経ガスのサリンが撒かれる前代未聞のテロ事件に騒然となった。

文化面で見ると、この年の10月に『新世紀エヴァンゲリオン』が放映開始されたことがよく知られているが、実は同じ年の年末に寅さんシリーズの最終作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』が公開されている。20年後の2015年(つまり今年)を舞台としているエヴァと、1969年から48作にわたって製作されてきた寅さんが、かろうじて被っていたという事実はなかなかに興味深い。日本人の価値観が一気に入れ替わる、ひとつのターニングポイントとなったのが、まさに1995年という時代であった。

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