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【無料記事】サッカー業界の地平を切り開いた偉大な先達 没後10年、ジャンルカ・トト・富樫さんを偲んで


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イスラエルから帰国して4日後の2月5日、フロムワン主催による富樫洋一さんを偲ぶ会、『ジャンルカナイト』が催された。富樫さんが亡くなられて、早いもので10年になる。訃報に接した日のことは、今でもはっきり覚えている。ちょうど日本代表のアメリカ遠征に出発する直前、スポナビの編集部から連絡が入り、気が動転したまま機上の人となった。エジプトで開催されていたアフリカ・ネーションズカップ取材中、呼吸困難で亡くなったそうだ。異国での、しかも54歳での突然の死。ご本人とご家族の無念はいかばかりであったか。太平洋の上空で、ずっとそんなことを考えていた。

あれから10年。ジャンルカ・トト・富樫こと富樫洋一さんの偉業について、あまりご存じでない若いサッカーファンも最近は増えているのではないか。一言で言い表すならば、富樫さんは「サッカー業界の地平を切り開いた偉大な先達」である。あらためて、故人の功績で主なものを振り返っておこう。まず富樫さんは、日本で初めて「フリーランスのサッカージャーナリスト」を名乗ったことで知られている。時に1985年。日本サッカー界は「冬の時代」のただ中にあり、日本リーグや全日本を取材していたのは新聞もしくは専門誌の社員記者に限られていた時代である(同年代の大住良之さんや後藤健生さんがフリーで一本立ちするのは、もう少しあとのことだ)。

また海外サッカー、とりわけセリエAの魅力をいち早く日本に紹介し、その普及に務めたのも富樫さん。WOWOWスーパーサッカーの開始は91年で、実況の八塚浩さんによれば「まだJリーグも始まっていないプロ野球全盛の時代に、イタリアのサッカーが受け入れられるか非常に不安」だったそうだ。その後のセリエA人気は誰もが知るところ。ちょうど日本でイタリアブームがあったとはいえ、それでも富樫さんの先見性には驚かされる。また、フロムワンの設立と同社が創刊したセリエA専門誌『CALCiO2002』にも大きく尽力。新たな出版文化を作ったのみならず、現フロムワン社長の岩本義弘さんをはじめ、ここから多くの優秀な編集者や書き手が輩出されたことも忘れてはならない。

この日の『ジャンルカナイト』では、かつての仕事仲間やサッカー仲間など、業界の関係者が多数集まったのだが、いつものサッカー関係者の集まりとは何かが違っていた。ふと気付いたのが、自分よりも下の世代の同業者がほとんど皆無であったことだ。フロムワンのスタッフを除くと、私はこの会の参加者の中では「若輩者」に属していたのである。考えてみれば、私が富樫さんと一緒にお仕事をさせていただいたのは、『新世紀サッカー倶楽部』というムック本が唯一。これが02年のことで、富樫さんのキャリアの中では「晩年」と言ってよいだろう。してみると私は、富樫さんにお世話になった最後のほうの世代だったのかもしれない。

富樫さんとの最初の接点は、私がエンジンネットワークでADをしていた時代での撮影現場であった。もっとも、それは「出会い」と呼べるものではなく、ひとりの書き手として対面するようなったのは98年になってからのことである。デビュー作『幻のサッカー王国』を上梓したものの、当時は旧ユーゴのサッカーなどマイナーすぎて専門誌はまったく関心を示さなかった。そんな時代にあって、私の売り込みに初めて応じてくれたのが、富樫さんが当時編集長を務めていた『CALCiO2002』だったのである(当時はサビチェビッチやミハイロビッチやボバンやボクシッチなど、旧ユーゴ系の選手がイタリアで活躍していた影響もあったかもしれない)。

そうした御縁ができたことで、翌99年の夏に浅草で開催された『CALCiO2002』創刊1周年記念パーティーにも呼んでいただき、そこで今のカミさんと出会うことになる。私と彼女を結びつけてくれたのは、実は富樫さんだった。そんなわけで、仕事面のみならず私生活面でも、私はこの人に本当に恩義を感じている。その後は、前述したムック本の編集以外、特に仕事上で絡むことはなかったが、代表戦の記者席などでたまに会うと「よお、ウッチャン!」とにこやかに声をかけていただいた。そういえば、ロシアから帰国する飛行機でも、偶然一緒になったこともあった。私はディナモの取材、富樫さんはアフリカでの取材から戻るところだった。メインストリームから少し離れたところでのサッカーの魅力を探っていたという意味でも、私は富樫さんのお仕事に強いシンパシーを感じていた。

私もあと5年で、富樫さんの享年に追いつくことになる。健康にはそれなりに留意しているが、人間、いつどこで死を迎えるかは誰にもわからない。富樫さんの足跡、そしてこの業界に遺ししてきたものの大きさをかみしめつつ、私も残り少なくなってきたキャリアの中で何を残せるのか、真摯に考えながら行動していくことにしたい。偉大な先達、ジャンルカ・トト・富樫さん。どうか、見守っていてください。

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