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なぜ人口16万人の街クラブはJFLを目指したのか? 谷口和司(ブリオベッカ浦安代表)インタビュー

 今季、初めてのJFLに挑戦しているブリオベッカ浦安が健闘している。開幕戦からの5試合は1勝4敗と大きく出遅れたものの、その後は立て直しに成功。最近では、東京武蔵野シティFC(△1-1)や奈良クラブ(2-1)といったJリーグ百年構想クラブに対しても、堂々たる戦いを見せて勝ち点を積み重ねている。前期リーグ第9節を終えて、4勝1分け4敗の8位。JFLルーキーとしては、十分に誇って良い成績であると言えよう。

 この浦安というクラブは、JFLでも実にユニークな存在だ。以前の巻頭コラムでも書いたが、もともとは地元の少年団がルーツ。卒業生の受け皿として、ジュニアユース、ユース、そしてトップチームが作られ、そのトップチームも千葉県リーグ3部からのスタートだった。そこから少しずつステップアップしていき、気がつけばアマチュア最高峰のJFLに辿り着いていたのである。

 浦安の驚異的な成長曲線について語るとき、どうしても外せない人物が、クラブ会長の谷口和司さんである。谷口さん自身は、サッカーはほとんど未経験。しかしご子息がブリオベッカの前身である浦安JSCに所属していたことから、このクラブの運営に携わるようになり、55歳となった2年前にエリートビジネスマンとしてのキャリアを投げ打ってクラブ経営に軸足を移す決断を下した。

 もっとも谷口さんの決断からは、悲壮感のたぐいは微塵も感じられない。なぜなら、クラブが決して無理をすることなくカテゴリーを上げていったように、谷口さん自身もサッカークラブの会長となることに「人生の必然」を感じていたからだ。そしてもうひとつ注目したいのが、このクラブは「将来のJリーグ入り」についての発言を一切していないことである。

 これまで私が取材してきた「上を目指す」クラブとは、まったく異なる道を進もうとしているブリオベッカ浦安。人口16万人の街クラブは、なぜJFLを目指したのか。そしてその先に、どのようなビジョンを見据えているのか。今回のインタビューは、もともとは『フットボール批評』10号の「ブリオベッカ浦安が描く未来」を執筆するために取材したものだったが、谷口会長のお話が非常に興味深いものであったので、独立したインタビュー記事として掲載する。(取材日:2016年2月5日@浦安)

■「もう1年、役員を続けさせてくれ」

――今日はよろしくお願いします。さっそくですが、谷口さんはもともと浦安の方ではないそうですね。

谷口 出身は福島です。父親が転勤族で、私が大学のときにこっちに家を構えたんです。ちょうどディズニーランドができて、このあたりもいろいろと開発が進んで人口が一気に増えた頃ですね。この間、ディズニーランドが35年になりましたから、その頃からこちらに住んでいることになります。

――そしてブリオベッカの前身である浦安JSCが誕生したのが89年。設立のきっかけは、当時浦安にあった東洋水産の少年サッカースクールだったと聞きました。

谷口 そうです。『マルちゃんサッカースクール』というのがあったんですが、会社移転とともに終了してしまって、地元の子供たちが通うスクールがなくなってしまったんですね。そこで子供たちの親が任意団体のスクールを立ち上げて、コーチを雇う形で作ったのが浦安JSCです。トップチームの齋藤(芳行)監督やTDの都並(敏史)さんには、当時から子供たちの指導をしていただいていました。

――谷口さんが浦安JSCに関わるようになったのは、最初は保護者としてです

谷口 そうです。6年生の親が持ち回りで役員をすることになっていたので、息子が6年の時に私も役員になったんです。そこで疑問に思ったのが「これだけちゃんとしたコーチがいるのに、なぜ浦安で一番弱いチームなのか」ということでした。それで指導者ストレートに(疑問を)ぶつけてみたら「小学生時代は勝ち負けにこだわる必要はない」という答えが返ってきました。たとえばディフェンスの子が、勝つためにやみくもにクリアばかりしていても絶対に伸びないと。

 そんなものかと思って見ていたんですが、確かに6年生くらいになると実力をつけていてランキングも上がっているんです。なるほど、そういうことなら指導者の考え方をもっと保護者も共有すべきだろうと思って、毎回試合が終わったら指導者が保護者に必ず説明をするようにお願いしました。それを続けていたら、翌年くらいからだんだん子供たちが集まり始めたんですね。浦安は元町、中町、新町と3つの地域があって、われわれのルーツは中町なんですが、次第に元町や新町の子供たちも入ってくるようになりました。

――今日、こちらに伺う前に「浦安JSC」で検索してみたら、mixiにコミュニティがあって、谷口さんの書き込みを見つけましたよ(笑)。「HPができました」とか「エンブレムが完成しました」とか。

谷口 おそらく08年くらいですかね。浦安JSCのブランドを作っていこうということで、エンブレムを作ったりHPを立ち上げたりということを始めました。その頃にはもう、息子は中学生になっていましたが、「もう1年、役員を続けさせてくれ」とお願いしました。

――あとでお仕事の話にも触れますが、本業がお忙しかったのに、週末に少年サッカーの役員を続けるの、けっこう大変だったと思うんです。なぜ、続けようと思われたのでしょうか

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