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「もうゴール裏に自分の居場所はなくなりましたね」 清義明(『サッカーと愛国』著者)インタビュー<3/4>

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 先週に引き続き、このほど『サッカーと愛国』(イースト・プレス)を上梓した、株式会社オン・ザ・コーナー代表取締役の清義明さんにお話をうかがう。インタビューの後篇では、ゴール裏界隈では知らぬ者がない存在である清さんの、知られざる過去を中心に語っていただいた。

 清さんが横浜F・マリノスのゴール裏で活動を開始するのは2002年から。意外と最近の話である。Jリーグ開幕以前からのサポーターを「第1世代」、Jリーグ開幕直後に生まれたサポーターを「第2世代」とするなら、「第3世代」ということになるだろうか。Jリーグブーム、日本代表のワールドカップ初出場、そして2002年の日韓大会を経て、それぞれのJクラブのサポーター文化が花開く原動力となったのが、この「第3世代」であった、というのが私の見立て。清さんはその代表的な存在であったといえよう。

 インタビューの後篇では、「真面目なサラリーマン」(本人談)だった清さんがいかにしてF・マリノスのゴール裏にたどり着き、サポーターが織りなす世界観にどのように魅了され、そしてなぜゴール裏に距離を置くようになったのか、存分に語っていただいた。私自身、清さんとはそれなりに長い付き合いだが、初めて耳にする話も少なくなく、大変興味深いインタビューとなった。最後までお付き合いいただければ幸いである。(取材日:2016年7月18日@横浜)

■バブル時代にあえてゲーム会社に就職

──清さんは横須賀のご出身で、横浜F・マリノスの前身である日産自動車から試合を観るようになったそうですね。

 日本リーグ時代は、けっこう無料チケットが回ってくるんですよ。こっちも暇だったんで、よく三ツ沢で試合を観ましたね。当時は有名人がいっぱいいる頃でしたよ。木村和司、金田(喜稔)、柱谷兄弟(幸一・哲二)とかね。ただし、決して熱心に観ていたわけでもないです。

──そうしたフットボールとのファーストコンタクトがあった一方で、清さんの文章って哲学や映画からの引用がとても多いじゃないですか。そうした素養はいつごろから培われたんでしょうか?

 もともと中学の頃からひねくれた文学少年でした(笑)。高校生の頃はポストモダンブームの洗礼を浴びながら、本を読んだり、たまにタバコと酒を隠れてやったり、みたいな感じでした。

──大学ではフランス文学を専攻されていたそうですが、当時の将来の夢は?

清 あんまり学術の方向に行くつもりはなくて、普通にサラリーマンになろうと思っていました。たまたまナムコという面白そうなゲーム会社と出会って、そこに就職しましたけれど、周りからは「お前、馬鹿か」みたいに言われました。

──まだぎりぎりバブルでしたから、他にもっといい就職先があっただろう、みたいな感じですか?

 そうそう、当時はいくらでも就職先はあったから、僕の同級生はみんな証券行ったり銀行行ったり商社行ったりしているわけですよ。ゲーム会社に行く僕は、相当に異端でした(笑)。

──私はまったくゲームをやらないのですが、当時のゲーム業界の位置づけってどんな感じだったんでしょうか?

 僕が就職したのは91年なんですが、当時はゲーム業界ってはっきり言って二流でしたよ。でも、僕は面白そうだから行ったんですけど、まだ扱いが低かったですよね。それが90年代半ばくらいになって、急にゲーム業界が花形企業になって、自分としてはびっくりみたいな(笑)。

──Jリーグが開幕した頃のジェフ市原って、胸にセガが入っていましたよね。

 そうそう。ナムコはサッカーゲーム出していたし。懐かしいな。

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