宇都宮徹壱ウェブマガジン

【新著より先行公開】Jリーグを目指さなかった理由 Honda FC(2008年・春)<1/2>

 以前より予告していた11月発売予定の新著のタイトルが、ようやく発表解禁となった。今のところ、まだ(仮)となっているが、ここに謹んでご報告することにしたい。

『Jのほそ道(仮)』

 言うまでもなく、松尾芭蕉の『おくのほそ道』へのオマージュである。なぜこのタイトルになったのか。本書の冒頭で書き記しておいたので、引用することにしたい。

 今回、恐れ多くも俳聖の代表作をタイトルに引用したのは、私自身が芭蕉よろしく全国を行脚し、その土地その土地に根付いているフットボール文化を取材してきたことに由来する。ただし私の場合、旅先で一句ひねるのではなく、心の赴くままにカメラのレンズを向けてはシャッターを切り続けてきた。取材対象はもちろんJクラブも多かったが、普段なかなかスポットライトを浴びることのない社会人サッカーの世界もまた、私にとっては重要なテーマである。そして地方のひなびた競技場で一喜一憂する、選手やクラブ関係者、あるいはサポーターたちの姿もまた格好の被写体であり続けた。

 本書では、地域からJリーグを目指すクラブ、あるいはJをあえて目指さなかった全国津々浦々のクラブについてのレポートを15の章にまとめた。年代で言えば、2008年から今年までの9年にわたる取材の記録である。

 さて当WMでは、今のところほぼ毎日のようにコンテンツを提供しているが、インタビューものなどのメインコンテンツは「月4本」としている。今月はすでにこの規定を満たしているのだが、単にお休みにしてしまうのはもったいない。そこで、版元であるカンゼンさんの了承を得た上で、『Jのほそ道(仮)』の第1章をWM読者の皆さんにいち早くお届けすることにした。第1章のタイトルは「Jリーグを目指さなかった理由」。JFLの「門番」としてつとに有名なHonda FCの08年のレポートである。

 おりしも今年の天皇杯でHonda FCは、3つのJクラブを打ち破って9大会ぶりにベスト16に駒を進めた。本稿では、鹿島アントラーズと壮絶な戦いを演じた、9年前の天皇杯準々決勝のシーンからスタートする。最後までお読みいただければ幸いである。

 決勝点が生まれたのは、キックオフから110分後のことであった。

 本山雅志のスルーパスに、興梠慎三がペナルティーエリア内に走りこんで足裏で巧みにバックパス。その興梠を追走していた柳沢敦が、すかさずボールを右足で流し込み、ゴールネットを揺らした。1対0──準決勝進出を決めたのは鹿島アントラーズであった。

 それまで10人になりながらも、懸命に走り回ってJ1王者を相手に拮抗した戦いを続けていたHonda FC。しかし、最後の最後で鹿島が見せた「これぞプロフェッショナル」と呼ぶべき難易度の高いゴールには、ただ沈黙するよりほかになかった。

 2007年12月22日。実に16年ぶりにベスト8進出を果たしたHonda FCの天皇杯での冒険は、ユアテックスタジアム仙台での激闘で幕を閉じることとなった。

 それにしても、昨年の天皇杯におけるHonda FCの脚光の浴び方は、ちょっと尋常ではなかった。スポーツ番組は、アマチュアクラブがJクラブを立て続けに破ったことを「大番狂わせ」として大々的に報じ(東京ヴェルディ1969に1対0=延長、柏レイソルに3対2=延長、名古屋グランパスエイトに2対0)、さらには大会で3ゴールを挙げたFWの新田純也を「働きながら頑張る」ストライカーとしてフィーチャーしていた。こうした一連のメディアの切り口からは、JFL、あるいはアマチュアクラブに対するステレオタイプの認識(というか事実誤認)が垣間見えて興味深い。

 たとえば「大番狂わせ」。Honda FCがJFLの「門番」として、Jを目指すクラブから恐れられてきたことを知る者なら、彼らが「脆弱なアマチュアクラブ」と描かれていたことに密やかな失笑を禁じ得なかったはずだ。少なくとも、J1復帰に向けて気もそぞろだった当時のヴェルディに勝利したことを「大番狂わせ」と呼ぶのは、いささか大袈裟に過ぎたと言わざるを得ない。

 同様のことは「働きながら頑張る」という表現にも見て取れる。確かに彼らの身分は、本田技研工業株式会社浜松製作所の社員であって、プロのフットボーラーではない。それでも、8時10分から12時までの就業時間を終えれば、残りの時間はサッカーに専念することができる。練習は、試合翌日を除いて毎日2時間から2時間半、午後の陽がある間に行われる。さすがに2部練習というわけにはいかないが、それでも一般的なJリーガーと比べて練習量ではあまり遜色はないと言えよう。

 よく知られているように、本田技研は、旧JSL(日本サッカーリーグ)所属チームの中でプロ化を断念した、数少ないクラブのひとつであった。結果、プロ志向の強い選手やスタッフの流出が相次いだ。住友金属には、監督の宮本征勝(故人)、コーチの関塚隆、そして黒崎久志、本田泰人、古川昌明、長谷川祥之、内藤就行、入江和久、千葉修が移籍。一方、読売クラブには、北沢豪、石川康が移籍している。

 住金と読売といえば、のちの鹿島アントラーズとヴェルディ川崎。Jリーグ最初のシーズンのチャンピオンシップを争った、Jリーグ黎明期の両雄である。歴史に「イフ」は禁物であるが、もしも本田技研がプロ化に手を挙げていたら、こうした選手の大量流出もなかったわけで、Jリーグ開幕のシーズンの風景はかなり違ったものになっていたはずである。

 もうひとつ、興味深い「イフ」を提示しておきたい。

 当初、浦和市(現さいたま市)が誘致しようとしていたのは、三菱自工ではなく本田技研であった(すでに『浦和ホンダウィンズ』というクラブ名まで用意していたという)。そのまま合意に至っていれば、現在の浦和レッズは誕生していなかった可能性が高い。

 こうして考えると、本田技研が(あくまでも逆説的な意味でだが)Jリーグに与えた影響というのは計り知れない。それでは、なぜ彼らは「プロ化」という甘美なる誘惑に駆られることなく、禁欲的なアマチュア路線を堅持することを決断したのだろうか。

 そこで私は、Honda FCの前身、本田技研サッカー部が挑んだ「プロ化への挑戦」にアプローチすることを思い立った。そこには、「プロクラブとは何か」「地域密着とは何か」といった、Jリーグの命題を再考する要素が多分に含まれているはずだ。そこでまずは、OBの言葉に耳を傾けることにした。

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