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【新著より先行公開】Jリーグを目指さなかった理由 Honda FC(2008年・春)<2/2>

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 JR浜松駅近くの鰻屋にて、2000円のうな丼を待ちながら、さりげなく客層を観察する。私以外は全員がスーツ姿。漏れ聞こえてくる会話は、午後の商談を前にしての作戦会議だったり、東京から来たお客さんの接待だったり。あらためて、企業城下町としての浜松を実感する。

 浜松といえば、創業者・宗一郎が本田技術研究所を創設し、本田エントツ型エンジンを自転車に搭載した『バタバタ』を開発した、いわばホンダのルーツともいえる土地柄である。しかし現在は、ここに本社を構えるスズキ、河合楽器、ヤマハがメイン。本社を東京・青山に移し、二輪と汎用を生産する浜松製作所のみを残した本田技研の存在感は、上記の企業に比べると、決して大きいとはいえない。新幹線の改札を出て、人々が最初に目にするのは、スズキの自動車と河合のピアノのディスプレイである。

 浜松製作所を訪れて、最初に案内されたのは、製作所の敷地内にあるhonda FCの事務所であった。小さいながらも、二階建ての独立した建物。インタビューに応じてくれたのは、JFL実行委員で事務局長の新村忠志、そしてスクールの校長でU-18コーチの設楽光永である。2人とも真っ白なツナギを着ているのが印象的である。かの宗一郎が「技術者の正装」といって憚らなかった、真っ白なツナギ。本田も北澤も、そして古橋達弥(現セレッソ大阪)も宇留野純(現ヴァンフォーレ甲府)も、みんなかつてはこの白いツナギを着ていたのだろう。

 新村と設楽は、いずれも78年入社の同期である。ただし、新村がトップチームに関わるようになったのは04年から。一方の設楽は入社直後から一貫してトップチームで、選手、マネージャー、コーチ、事務局、監督、スカウトなどを歴任してきた。したがってサッカー部の歴史に関しては、設楽が主に私の質問に答え、新村が適時補足するという役割分担となった。

 まずは、浦和へのフランチャイズ(当時まだ「ホームタウン」という言葉はなかった)の件について。本田技研が浦和に移転する可能性は、どれくらい現実味があったのだろうか。

「浦和の青年会議所が中心になって、90年くらいには活動していたんです。埼玉(狭山市)にホンダの工場があった関係で、浜松のチームを誘致しようと。われわれも、何度も向こうに行って、サッカースクールをやったりしていましたね」(設楽)

「実はこのとき、浜松市民の間でも盛り上がっていまして、(プロ化に向けての)署名活動なんかをしていましたね。ただ浜松の人たちは、浦和でそういう話になっているという情報は入っていなかったんですよ」(新村)

 何と、チームを誘致しようとする浦和市、そして地元の浜松市、双方が別々に盛り上がっていたということらしい。

 その後、トップになったばかりの川本社長が、当時の埼玉県知事に就任の挨拶をした際に、先方から「プロチームをよろしく」という話になり、何も知らされていなかった社長は明確な返答を避けてその場を辞した。

 かくして、浜松製作所だけで進んでいた浦和移転の話は「本社預かり」となる。一説には、川本社長の独断でプロ化が白紙撤回されたとも伝えられるが、実際には役員会議に諮られたようだ。再び、設楽。

「当時の部長から聞いた話ですが、役員の中に『サッカー部は浜松で地域貢献すべきだ。それなのに埼玉でいいのか』とか『やるんだったら、浜松しかないだろう』といった意見があったと。結局、それで浦和はダメになったみたいです。というのも、基本的に『ホンダ』という看板を背負っているわけで、サッカーファンも『お客さま』なんです。それなのに浦和に移転となったら、せっかく応援してくれた地元の『お客さま』を裏切ることになる。つまり、企業イメージとしてマイナスになる、という判断もあったようです」

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