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宇都宮徹壱ウェブマガジン

「成功者」ではなかったかもしれないけれど 恩人・広瀬一郎さんを追悼する

 5月2日、広瀬一郎さんが亡くなった(参照)。享年61歳。あまりにも突然の出来事で、訃報に接したときには文字通り茫然自失となり、しばらく何も手がつかなくなってしまった。ちょうど前日、取材で広瀬さんの母校である藤枝東高校を訪れていたこと、そして藤の花が今を盛りに美しく咲き乱れていたことを思い出し、ことさら悲しい気分になってしまった。

 たびたび言及してきたことだが、広瀬さんとの出会いがなければ、私は今のような立場になかっただろうし、写真家・ノンフィクションライターとして20年間の活動を続けることもできなかったと思っている。私たちの結婚パーティーの際には、乾杯のスピーチをお願いしたのだが、なかなか話が終わらずシャンパンの泡がすっかり抜けてしまったのも、今となっては良い思い出だ。拙著『ディナモ・フットボール』を激賞してくれたのもまた、広瀬さんだった。

 数少ない「恩人」と呼べるひとりであったことに加え、広瀬さんは「死」とか「老い」といったイメージから程遠い人でもあった。水泳やゴルフやフットサルなどで身体の鍛錬を絶やさず、きびきびした身のこなしとよく通る声からは、とても還暦を過ぎているように感じられない。最近は少しご無沙汰していたが、亡くなる4日前にもFacebookで日常的な書き込みを残している。特に病気をされているご様子もなかったので、その意味でも衝撃を受けている。

 あらためて、広瀬さんの功績について考えてみたい。よく知られているのは、電通勤務時代でのワールドカップやトヨタカップのプロデュース、そして2002年ワールドカップ招致活動であろう。2000年にはワイズ・スポーツ(スポナビの運営会社)の前身であるスポーツ・ナビゲーションを立ち上げ、最近では静岡県知事選に立候補したことでも話題になった。しかし個人的に、広瀬さんの一番の功績を挙げるならば「人材育成」に尽きるのではないかと思っている。

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