宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料記事】なぜ2002年は「理念なき大会」となったのか 20年後に明かされる「日韓共催決定」の舞台裏<2/2>

日本にとってもターニングポイントだった「5.31」

――死んだ子の年を数えるような話で恐縮ですが、もしも2002年が日本の単独開催になっていたら、どんな大会になっていたと思います?

広瀬 僕らは64年の東京五輪に匹敵するような大会にしようと思っていた。64年は新幹線や高速道路といった交通インフラが整備されたけど、結局は東京というひとつの自治体の話だったわけ。でもワールドカップは、16の自治体で開催されて、しかも首都の東京は入っていない。一極集中型ではなく、地域が分散しながらネッワークを構築していくという、まさに前川レポートの具現化も可能だったと思っている。

――それがさっきおっしゃったように、結局は理念も戦略もないまま単なる地域のお祭りで終わってしまったのは残念でしたね。

広瀬 なぜそうなったからというと、ファースト・プライオリティーが「日韓でうまく擦り合わせていくこと」に変わってしまったから。大会名にしても「JAPAN/KOREA」か「KOREA/JAPAN」かで揉めに揉めて、そういうところばかりにエネルギーを浪費して大変だったんだよ。そういう大変さはあちこちから聞こえてくるから、やみくもに「理念がない」と批判するのも憚られるんだけどさ。

――逆に、共催によって得られたことって何だと思います?

広瀬 それはやっぱり、あの大会によって日韓関係は変わったよね。両国の政治面や経済面ではなく、日本人と韓国人が民間レベルや文化レベルで向き合えることができるようになった。しかも全国レベルでね。それはひとつの成果だとは思う。ただしその成果って、戦略に基づいて得られたものではなくて、たまたまだからね。

――招致委員会が解散したのは、共催が決まってすぐでしたか?

広瀬 6月の末だね。7月1日に会社に戻った。

――電通に戻ってからのお仕事は?

広瀬 ない。びっくりするくらいなかった。「2年間、お疲れ様でした。1カ月半、休んでいいよ」って言われて、やることないからアトランタ五輪を観に行った。それで会社に戻ったら、自分の席もなければ電話もないし、社内の電話帳にも僕の名前がない。「あ、僕はいらないんだな」って、その時に思ったね。

――ちょっとひどい話ですね。

広瀬 普通、出向から帰ってくると、大きな仕事の場合は部長になるんですよ。でも、昇格さえない。つまり社内における僕の評価って、ものすごく低いことがわかった。それから12月まで、さまざまな場面で自分の評価の低さというものを見せつけられたわけ。それである日、同期で一番信頼しているやつに「この評価の低さを説明してくれ」と頼んだんだ。そしたら「お前はこの会社では絶対に出世しない」と言われて、すごく納得した。そうだよなと。それで「会社が評価してくれない」と不満を持ちながら、ここで40代、50代を過ごしたくないなと、その時に強く思った。

――その延長線上に、2000年のスポーツナビ立ち上げがあったわけですね。そうして考えると、広瀬さんにとっての「5.31」というのは、まさに人生のターニングポイントだったわけですが、あれから20年を経ての感慨は、どのようなものでしょうか?

広瀬 あの日は、僕の人生にとってもターニングポイントだったけれど、この日本という国にとってもそうだったと思っている。96年という年は、バブルが弾けてから5年くらい経っていたけれど、それからさらに15年も「失われた時代」が続くとは誰も想像していなかったわけだよ。

 もし、あそこで日本の単独開催が決まっていたら、ポストバブルの停滞期を脱して経済的にも復活できたかもしれない。日本人がちゃんと反省していたなら、もしかしたら神様は(日本単独で)ワールドカップをやらせてくれたかもしれない。でも、それってあまりにも虫がよすぎる話だよ(笑)。だって日本人って、自己客体化できないし、反省もしていない。要するに懲りていないんだよね。

――そして2002年の反省もなされないまま、2020年を迎えようとしていると。

広瀬 そうだね。ぜんぜん懲りていない、つまり検証と反省がないんだから。新国立の問題やらエンブレムの問題やらが起こって当然だよ。2002年のワールドカップが、なぜ理念がないままに行われてしまったのか。どうして2006年のドイツのようなレガシーを残すことができなかったのか。そこを検証しないまま4年後を迎えると、結局また同じことを繰り返すと、僕は思っている。

<この稿、了>

広瀬一郎(ひろせ・いちろう)

1955年生まれ。電通にてワールドカップやトヨタカップなどスポーツイベントを多数プロデュース。99年から4年間、Jリーグ経営諮問委員会の会員を務める。2000年に株式会社スポーツ・ナビゲーションを設立。02年に退社し、経済産業省のシンクタンクに入る。04年にはスポーツ総合研究所を設立して所長に就任。その後、多摩大学教授を経て13年に静岡県知事選に立候補。あえなく落選となるも34万票を獲得した。17年5月2日、逝去。享年61歳。

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