日本最大の「Jクラブの空白地」を行く ホンダロックSC&テゲバジャーロ宮崎<1/2>
今週は、先月に訪れた宮崎県のフットボールをめぐる旅を、皆さんにお届けすることにしたい。文字数は8000ほど。フットボール批評の原稿と同じくらいの分量である。当WMでは今月から、国内のアンダーカテゴリーにフォーカスした旅のレポートを、定期的に発表してゆく。他の取材との兼ね合いもあるので、月1はちょっと厳しいが、それに近いペースを維持していきたい。そして来年の今ごろには『サッカーおくのほそ道』の続編となる書籍を上梓することを目指している。そちらも併せて、ご期待いただきたい。
<目次>
*8年ぶりに宮崎でのJFL取材を思い立った理由
*なぜ宮崎に「スポーツを見る」文化が育たない?
*殺伐とならず同点に終わった「宮崎ダービー」
*航空自衛隊の町にフットボール専用スタジアムを
*ホンダロックと宮崎を結びつけた本田宗一郎
*テゲバ発祥の地で感じた宮崎の「もてなしの心」
■8年ぶりに宮崎でのJFL取材を思い立った理由
「当機は間もなく、定刻どおり宮崎ブーゲンビリア空港に到着予定です。現地の天候はくもり、気温は……」
そんな機内アナウンスを耳にして、思わず座席からズレ落ちそうになった。ぶ、ぶ、ぶーげんびりあですか? あとで調べたら、宮崎空港がこの愛称を採用したのは、今から5年前の2014年。私が最後に宮崎空港に降り立ったのは、その3年前の11年であった。
東日本大震災があった、あの年。私は当時JFLに所属していた、松本山雅FCを追う取材を続けていた。そして12月4日、小林総合運動公園市営陸上競技場でのホンダロックSC戦に2−0で勝利したことで、山雅は悲願のJ2昇格を果たしたのである。山雅目線で見れば、確かに感動的な試合。しかしホームのホンダロック目線で見ると、印象はかなり異なる。
というのも、この試合は彼らにとってシーズン最後のホームゲームであり、引退して社業に専念する選手たちのセレモニーが行われていた。しかし、万感がこもった彼らの挨拶は、山雅サポーターたちの歓喜の声で、すっかりかき消されてしまい、何やら申し訳ない気分になってしまった。
あれから8年。山雅が2度目となるトップリーグでの戦いに挑む一方で、ホンダロックは相も変わらず「アマチュア最高峰」での日々を粛々と過ごしている。一見すると、大きな変化が感じられないJFL。しかしながら、宮崎県のフットボールを巡る状況は、当時と比べて少なからず変化した。
17年の地域CLで、石崎信弘監督率いるテゲバジャーロ宮崎が、初出場ながら決勝ラウンドを2位で突破。これにより18年から、県内に全国リーグを戦うクラブと企業チームが並び立つこととなり、ここに宮崎ダービーが成立することとなったのである。
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