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鈴鹿アンリミテッドFCの壮大なプロジェクトを託されて ミラグロス・マルティネス・ドミンゲス&小澤哲也<2/2>

鈴鹿アンリミテッドFCの壮大なプロジェクトを託されて ミラグロス・マルティネス・ドミンゲス&小澤哲也<1/2>

<小澤哲也通訳インタビュー>

■スペイン5部でのプレー経験、そして挫折

──まずは小澤さんの経歴から教えてください。出身は静岡市で、藤枝明誠高校を卒業ということですが。

小澤 そうです。僕の高校は、藤枝東に比べると歴史は浅いのですが、最近は全国大会にも出られるようになりましたね。僕らの頃は、残念ながら全国には出られなかったんですけれど、その頃から環境的には恵まれていると感じていました。室内の人工芝グラウンドがありましたし、県外からいい選手を連れてきて強化にも力を入れていました。

──高校卒業後、スペインのSporting Universidadに入団するわけですが、カテゴリーでいうと何部になるんでしょうか?

小澤 5部ですね。高校の卒業式の翌日には、日本を飛び出してスペインに向かいました。

──スペインへのこだわりはあったのですか?

小澤 こだわりというか、レベルが高いヨーロッパでプレーしたいという思いがまずありました。中学・高校と海外遠征する機会があって、その頃から漠然と海外でプレーしたいという夢は持っていましたね。実はカズ(三浦知良)さんが小学校時代に所属していた城内FCでプレーしていたんですが、その時の指導者の方々がスペインでプレーするきっかけを作ってくれたんです。

──Sporting Universidadというのは、スペインのどのあたりのクラブだったんですか?

小澤 ガリシア地方のラ・コルーニャです。たぶん今は消滅していると思うんですが。実は僕、語学学校に通うようになったのは半年後くらいからでした。日本人がほとんどいない地域で、観光地というわけでもなかったので、とにかく生活するために無理やり言葉を覚えたという感じでしたね。

──結局、どれくらい向こうで頑張ったのですか。

小澤 2006年から08年の途中までです。何とかプロになろうと頑張っていたんですが、向こうの2部でプレーするのが難しいということがわかって、それで帰国して現役も引退しました。日本に戻ってからプレーを続ける選択肢はなかったですね。スペインで夢を絶たれた時点で、サッカーの世界から足を洗う決断をしました。

──では、日本に戻ってからはまったくサッカーに関わっていない?

小澤 関わっていないですね。仕事も病院の事務から始まって、鈴鹿に来る前は保険の外交員でした。サッカーとはまったく無縁の生活を送っていましたね。正直、サッカーに関わることを意図的に避けていて、代表戦もJリーグも見ていませんでしたし、草サッカーでボールを蹴ることもなかったです。

──そこから現在の仕事にどうつながったのか、ものすごく不思議なんですが(苦笑)。

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