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強化の仕事は一般企業の「人事」に似ている? 西村卓朗(水戸ホーリーホック強化部長)<2/2>

強化の仕事は一般企業の「人事」に似ている? 西村卓朗(水戸ホーリーホック強化部長)<1/2>

アメリカでの挑戦から札幌で現役生活を終えるまで

──ここから、西村さんが水戸に来るまでのお話を伺いたいと思います。私が初めて西村さんにお会いしたのが、今から10年前のカナダなんですよね(笑)。まだMLSに加盟する以前の、バンクーバー・ホワイトキャップスとポートランド・ティンバーズの試合を取材したとき、西村さんはポートランドの選手として出場していました。チームメイトには、元日本代表の鈴木隆行さん、そして対戦相手にはやはり元日本代表の平野孝さんがいました。このアメリカでのプレー経験が、今のキャリアにも影響を与えていると思うのですが。

西村 大きかったと思います。やはりJリーグというか日本しか知らなかったわけで、自分たちの環境や待遇がどれだけ恵まれていたかというのは、向こうに行って初めて気づいたことです。それとやっぱり「多様性」ですよね。今の自分が大事にしている言葉のひとつなんですけど、それもまた現地で事あるごとに考えさせられました。

──直前の2008年までは大宮でプレーしていて、最後のシーズンはほとんど出番がありませんでした。そこからアメリカには、どう結びついていったのでしょうか?

西村 その年で大宮との契約が終わって、次の移籍先を探していたんですが、トライアウトを受けてもどこからも声がかからなかったんですね。(翌年の)1月いっぱいは日本のクラブからのオファーを待とうと思ったんですけど、中旬を過ぎてもいよいよないことがわかって。そうしたら三菱養和の同級生の星出悠が、たまたまアメリカの3部リーグにいて「こっちに来る?」というメッセージをもらったんです。

 それで向こうに行ってトライアウトに参加したんですけど、怪我をしてしまって。重症ではなかったものの、お先真っ暗な状態でした。そこでリハビリと勉強を兼ねて、ロサンゼルスにある、プロアスリートが通うジムに通うことにしたんです。『アスリーツ・パフォーマンス』というジムなんですけど、実はLAギャラクシーと同じ建物があって、そこにいた清水俊太という同世代のメディカルスタッフと出会うことができました。

──海外での治療というのは、非常に不安がありますけれど、そこで日本人の医療スタッフと出会えたのは幸運でしたね。

西村 そうなんですよ。幸い治りも早くて、そこからいろいろチームを探している時に、LAのちょっと上のあたりにあるポートランドに練習参加して、加入することができました。

──アメリカではポートランドで1年、そしてクリスタル・パレス・ボルチモアで1年プレーしていました。日本のサッカーとは、スタイルも選手に求められるものも、かなり違っていたと思います。どのように順応していったのでしょうか?

西村 まず「これが日本ならこうだった」みたいなものを捨てることからスタートですよね。その上で「自分が今、何を求められているのか」を考えてプレーで表現する。こだわりを捨てて、常に自分を変化させながらも、いかに自分の特徴を生かしていくのかをということを常に考えていました。

──その後、日本に帰国して、最後はコンサドーレ札幌で1シーズンを過ごして現役を引退します。やはりキャリアの最後は日本で終えたかった?

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