再現性の低いサッカーに未来はないのか?風間グランパスとポステコ・マリノスで分かれた明暗(J論)

宇都宮徹壱ウェブマガジン

たとえフリューゲルスの悲劇が忘れ去られたとしても あれから21年、サンパイオが語る「10.29」

 10月も最終週となり、日本サッカー界の「メモリアルデー」が続く。10月28日は「ドーハの悲劇」から26年。では10月29日は? 今から21年前のこの日、横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併が発表されたことを記憶する人は、年々少なくなっている。今では合併の経緯はもとより、フリューゲルスというJクラブがあったことを(そして横浜F・マリノスの「F」が何を意味するかを)知らない世代も珍しくなくなった。

 今回は当時のメンバーのひとりで、現役のセレソン(ブラジル代表)でもあった、セザール・サンパイオ氏の独白をお届けすることにしたい。その前に、本稿を掲載するに至った経緯を説明しておこう。実はサンパイオ氏へのインタビューは、今年6月にブラジルで開催された、コパ・アメリカ取材が決まったときから計画していた。ただし現地に行ってみると、想像以上に多忙を極める人で、アポイントが取れないまま帰国日は迫っていた。

 そんな中でラストチャンスとなったのが、サンパウロのジャパン・ハウスで開催された「元サッカー選手・監督が語る日伯サッカーの魅力」というイベント(参照)。懐かしい面々の中に、モデレーターとして登壇するサンパイオ氏の姿もあった。そこで、こちらの質問をポルトガル語に訳したメモを手渡し、後日メールにて返信してもらえるようお願いした(翻訳と交渉にはサンパウロ在住の大野美夏さんに協力いただいた)。

 本稿は、大野さんが翻訳したサンパイオ氏の返信を、時系列を整理して再構成したものである。正直、新事実と呼べるようなものは、ほとんどない。それでも輝かしいキャリアを誇る元セレソンが、21年を経た今でもフリューゲルスと日本のことを思い続けている事実に、誰もが胸を熱くすることだろう。とりわけ「10.29」の出来事を、昨日のことのように覚えている方には、ぜひともお読みいただきたい。

 フリューゲルスの思い出は、今でも僕の心にしっかりと残っている。僕にとって日本は未知の国だった。新しい土地、新しい文化、新しい出会い。僕たち家族にとって、すべてが目新しいことばかりだった。サッカー選手のキャリアとしても、チームメイトやスタッフに恵まれ、良い結果を残すことができた。当時の仲間たちのことを思い出すと、とっても温かい気持ちになる。フリューゲルスでの年月は、僕にとっては忘れられない宝物だ。

 それだけに、あの日のことを思い出すと、今でも悲しみで胸がいっぱいになる。あれは10月の終わりごろだったかな。フリューゲルスのスポンサー2社(全日空と佐藤工業)が、経費削減でこれ以上のクラブ運営できないから、横浜マリノスと合併するという決断を下した。僕は最初「何の冗談かな?」と思っていたよ。リーグ戦でも(前年の)天皇杯でも、僕らは好調だったからね。

 時間が経つにつれて、クラブ経営が成り立たないというのは本当のことなんだということがわかって、僕も家族も本当にショックだった。もちろん、チームメイト全員が同じ心境だったと思う。「抗議のために試合をボイコットしよう」と息巻く選手もいた。でも、僕は彼らに言った。「われわれ選手には、クラブとの契約がある。それを投げ出してはいけない。この先、どんな未来が待ち受けようとも、練習も試合も精いっぱいやろう」ってね。

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