宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料公開】『東欧サッカークロニクル』への道 長束恭行(サッカージャーナリスト・通訳)<1/2>

オシムがサッカーの話をしたがるのは「寂しかったから」?

──長束さんといえば、2006年のワールドカップで日本とクロアチアが同組になったとき、「クロアチア博士」としてたびたびメディアに登場しました。あの時はいろいろ大変だったと聞いていますが。

長束 大変でしたね。組み合わせが決まってから5分後には、テレビ朝日から電話がかかってきました(笑)。その後もいろんな局から仕事の打診がありましたが「どうせワールドカップが終わったら、誰もクロアチアのサッカーなんか見向きもしないんだろうな」って思っていました。ですから「どうせバブルなんだから」って割り切るようにしました。友人のサポーターも、最初は喜んでインタビューに協力してくれたんですが、次第に「お前は俺を使って金儲けをしている」とか言われて(苦笑)。

──なるほど。せっかくコーディネーターがいい情報を引き出しても、それが番組で使われないことにストレスを感じることってありませんでした?

長束 いっぱいありましたよ。トミスラフ・イビッチという、87年のトヨタカップでFCポルトを優勝に導いた名将にも話を聞いたんです。その時に05年のコンフェデでの日本を分析してもらったんですけど、彼は「中田英寿を左のウィンガーに使ってみればどうか」とコメントしていたんですね。ところが番組の解説者の方が「俺はそのアイデアは反対だ」とか言って、インタビューが全部パーになったんです。せっかくクロアチアの名将に話が聞けたのに。「だから日本のメディアは!」って思いましたね。

──そのドイツ大会後、イビチャ・オシムが日本代表監督になりました。その翌年に長束さんは新潮社からオシム著『日本人よ!』という本を翻訳、上梓します。どういう経緯だったんでしょう?

長束 オシムさんがジェフ千葉の監督になってから、クロアチアのメディアからよくインタビューをよく受けていたんですが、それを翻訳して僕のブログに掲載していたんです。それで日本代表監督就任の噂が出てから、掲載していた言葉から選りすぐったものをまとめていたら、いくつかの出版社から「このスタイルで本にできないか」というオファーが来まして。最初に話を持ってきてくれたのが新潮社だったんですね。

 ただ「オシムにちゃんと許可をとろう」ということで、手紙を書いて返事を待っていたんです。そうしたらオシム本人から「君たちだけはきちんと許可を求めてくれた。だからインタビューに答えよう」ということなって、それでオシムに直接話を聞く企画に変更になったんです。ただしタイミングがなかなか合わなくて、それで僕が日本に戻って10時間くらいインタビューして完成させたのが、あの本だったわけです。

──随分と大変な作業だったと思いますが、残念ながら木村元彦さんの『オシムの言葉』(集英社)くらいヒットはしなかったみたいですね

長束 そうですね、アジアカップ(07年)の結果次第のところがありましたから。新潮社もずいぶん校正をしっかりするほうなので、出版時期がずれ込みまして、アジアカップ直前の販売になりました。勝ち続けているときは売れたのですが、準決勝で敗れてしまって、思ったより売れなかった。ただ、ユーゴサッカーを追っている僕のような人間にとっては、オシムにインタビューできたこと自体が別次元の喜びでしたね。

──その後、あれほどひんぱんにインタビューすることになるとは……

長束 その時は思いもしませんでした(笑)。ただ毎回「オシムの日本人論」みたいなテーマになってしまうので、やっている側としては辟易する部分は正直ありました。向こうもなかなか僕の名前を覚えてくれないし。でも、初めて僕ひとりで自宅にお邪魔してインタビューした後に「また来いよ」と言われたんです。ツンデレだなと思いましたね(笑)。さんざん今まで冷たかったくせして。

──長束さんから見て、オシムさんはどういう人ですか?

長束 いわゆるサッカー狂ですよね。とにかくサッカーの話がしたい。知人が来たらサッカー話、ジャーナリストが来てもサッカー話。取材とか関係なくサッカーの話がしたいんですよ。奥さんとしては正直「そろそろサッカー話は勘弁してあげて」という雰囲気もあったんですが、やっぱり彼は寂しかったのかもしれないですね。日本代表監督時代、(通訳なしで)おしゃべりができる人って、奥さんと(息子の)アマルしかいなかったわけですから。

前のページ次のページ

1 2 3
« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ