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元清水エスパルス社長 左伴繁雄が語る F・マリノスと湘南での日々<2/2>

元清水エスパルス社長 左伴繁雄が語る F・マリノスと湘南での日々<1/2>

■「左伴さんが来るような会社じゃないんだから」

──結局のところ左伴さんが横浜F・マリノスの社長だったのは、2001年の途中から06年いっぱいまでの6シーズン。あらためて振り返ってみて、いかがでしたでしょうか?

左伴 コミットメント剥がしということでいうと、01年の「Stay J1」はOK、02年の「Within 3rd place」もOK。03年は「Get to the championship(優勝せよ)」」だったんだけど、これはコミットメントではなくターゲットだったんですよ。これについても03年と04年でOK。そうしたら05年は9位だったと。これはもう駄目ですかねって言ったら「One more challenge(もう一度やってみろ)」と。結局、最後の年も9位で、それで退くこととなりました。

──それでいったん、日産に戻ったと?

左伴 いえ、その時にはもう出向の身ではなかったんです。岡田さんが来る03年には、出向からマリノスに転籍してもらいました。きっかけは前の年のオフの契約更新の時、ある選手から「社長はどうせ本社に戻れるからいいよね」って言われたことです。「そうか、だったら俺もプロになろうかな」って思ったのがきっかけ(笑)。あと、出向よりも転籍で社長になったほうが、サラリーはちょっと高くなるんです。こんなに毎日、切った張ったの生活していて、このサラリーだと割が合わねえって思って(苦笑)。

──なるほど(笑)。それで07年は日産プリンス神奈川販売の執行役員に収まって、翌08年の12月には湘南の常務取締役に就任するわけですが。

左伴 清水の話の時にも出てきましたが、クラブの役員人事って年末に決まって任期は1月いっぱいじゃないですか。次のクラブに行きたくても、どこも組閣が終わっているわけですよ。いったんマリノスは出たんだけど、他のJクラブだと行くところがない。それでしばらく、日産の車販で車を売りながらオファーを待っていた、ということですね。

──それで、ベルマーレの常務取締役就任が08年11月1日。J1で2連覇した社長が、J2の市民クラブへ。しかも社長ではなく、いち営業部隊長みたいなポジションでの再出発だったわけですが。

左伴 最初の役職が常務取締役でしたが、言ってみれば「軍曹」ですよ(苦笑)。なぜそれを選んだかというと、さっきも言ったとおり、二足歩行のスポーツビジネスをやってみたかったから。つまり親会社から、余計なお金をもらわない。自分たちの力で稼いで、チームを稼働させていくというプライド。日産からお金をもらい続けていた、後ろめたさの裏返しということだったんですよ。

──ベルマーレへの転身は、先方からのオファーではなく、左伴さんからの売り込みだったそうですね。当時の社長は眞壁(潔)さんでしたが、どんなお話をされたのでしょうか?

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