今こそ語ろう、水戸ホーリーホック激動の12年 沼田邦郎前社長に学ぶ「トップの去り際」<2/2>
<2/2>目次
*柱谷哲二監督による「プロとしての厳しい提言」
*コロナ禍で切り替えができない会社は消えていく
*社長時代に達成できたこと、できなかったこと
■柱谷哲二監督による「プロとしての厳しい提言」
──沼田さんが水戸の社長に就任した08年には、リーマン・ショック。そして就任3年目の11年には、今度は東日本大震災の被害に見舞われることになります。一方でこの年は、水戸市との関係性が改善されて、行政からの支援が得られるようになりました。非常にエポックメイキングな年だったんですね。
沼田 まず行政との関係性について言えば、この年にたまたま選挙があって、高橋(靖)さんが市長になったのが大きかったですね。ちょうど選挙活動中で、クラブに挨拶に見えた時に「僕はスポーツ文化というのは大事にしたいし、そこはやりたいと思っています」と言っていただけて、それで当選後に話し合うきっかけも生まれました。
──それまで水戸市とクラブとの間では「一切支援しないし、支援も受けない」という協定書があって、高橋市長の就任後にそれが撤廃されたと。
沼田 正直、行政との関係性を改善しないと、もうやっていけないという状況だったのは事実です。結果として、この年に水戸市から500万円の支援をいただくことができましたし、市を挙げてサポートしていただけるようになりました。商工会議所を中心に募金活動も始まって、1000万円くらい集まったんですよ。それもあって、Jリーグからお借りしていた3000万円を返済することができました。
──11年といえば、元日本代表のキャプテンで、ヴェルディの黄金時代の一員だった柱谷哲二さんを監督に招いた年でもありました。これも同時の水戸の状況を考えると、かなり画期的なことだったと思います。
沼田 そう思いますね。木山監督が10年いっぱいで退任することになり、後任については藤原先生の教え子にもいろいろ当たってみたんですよ。でも当時の水戸は、練習場は河川敷だし、クラブハウスはないし、給料も安いから誰も来たがらなかった。その時に、ある方を介して柱谷さんをご紹介いただいて「この人しかない!」と思いましたね。監督としての能力もさることながら、知名度についても重視していました。そうでないと、クラブは沈む一方でしたから。
──柱谷さんが監督になられて、現場の雰囲気は変わりました?
沼田 変わりました。こちらの置かれた状況を受け止めていただいた上で、プロとしての厳しい提言は何度もいただきました。僕らとしても、その要求に何とか応えようと努力してきましたし、柱谷さんにも営業活動にご協力いただいたこともありました。「プロというのは、こういうことだよ」というのを具体的に提示されて、それにしっかりと向き合うきっかけになったのが、柱谷さんの監督就任だったと思っています。
──こうしてお話を伺っていると、水戸ホーリーホックというクラブは、本当に人に恵まれていますよね。それこそ萩原先生から始まって、高橋市長、柱谷監督、そして今は西村GMがキーパーソンになっているように感じます。小島さんを引っ張ってきたのも、西村さんだったわけですし。
沼田 彼は前任の小原さんからの紹介で、たまたまVONDS(市原FC)の監督を辞めるということで来てもらいました。彼は水戸のOBでもなければ、こっちに地縁があるわけでもないけれど、このクラブに来てくれて本当に助かっています。もちろん、バチバチ議論することもあります。それでも「こういう方針で強化したい」というビジョンが明確で、われわれもそれに応えていこうということで、ここまでやってこられたという感じです。
──商売でも人との縁というものは大事ですけど、こういうつながりというのは必然だと思います? それとも偶然なんでしょうか?
沼田 僕は必然ではなく、偶然だと思っています。ただし個人であれ組織であれ、周囲はその本質を見ています。そして、本質的な部分に共感した人たちが、われわれのクラブに来てくれるんでしょうね。ウチはウチで「来るもの拒まず、去る者追わず」が基本方針。ウチのスタイルに共感するものがあれば、一緒に働いていただきたいですし、物足りなさやさらに上のレベルを目指すのなら、次のステージに行っていただいてかまわない。そのスタンスに変わりはないですね。
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