宇都宮徹壱ウェブマガジン

記者としてオシムさんから学んだこと 塩畑大輔(LINE株式会社)<2/2>

記者としてオシムさんから学んだこと 塩畑大輔(LINE株式会社)<1/2>

<2/2>目次

*「記事の価値=広告の指標」ではないという考え方

*速報よりも時間をかけて掘り下げた記事が求められる?

noteを使って取材の仕方や記事の書き方を伝えたい

「記事の価値=広告の指標」ではないという考え方

──結局、日刊スポーツ新聞社には15年在籍して、そこから塩畑さんは17年にLINE株式会社へ転職します。もともとジャーナリスト志望で、メディアに所属しながら発信できる立場にいたのだから「このままずっと」という考えはなかったのでしょうか?

塩畑 おっしゃるように「このまま記者生活を続けていたら幸せだろうな」って思っていました。ゴルフのあとは、サッカーに戻って浦和レッズの担当をやらせていただきましたし、最後は野球で西武ライオンズの担当でした。浦和でも西武でも、自分の名前を覚えていただいて、ファンやサポーターの方々からも本当に良くしていただいたんですよ。

──それなのに、プラットフォームへの移籍を決断したと。しかも「記事を書かない」LINEに移籍した理由は何だったでしょうか?

塩畑 まず「ネットだったら、もっといろんなことができるんじゃないか」って考えるようになったことですね。ちょうど40歳になるタイミングというのもあって「そろそろ取材して書く仕事に一区切りを付けるのもありかな」と考えるようになりました。それで「自分で記事を書くことはない」という条件を受け入れて、LINEへの転職を決意しました。

──なるほど。ところが興味深いことに、LINEに転職した間もない頃に、浦和の阿部勇樹選手がサラエボのオシムさんに会いに行くという記事を書かれていますよね(参照)。あれははっきり言って「やられた!」と思いましたが、LINEでも記事が書けるようになった理由は何だったのでしょうか?

塩畑 LINEは当時、提携する媒体さんの記事を短い記事を要約して紹介するような見せ方をしていたんです。その次のステップとして「もっと読ませる記事があってもいいよね」という話になった時に、記者経験のある僕がオリジナルの読み物を書くという企画が持ち上がりました。最初に取り上げたのが鹿島の内田篤人選手、それから西武の菊池雄星投手と、続けて一定の反響が得られたあたりで、あの企画を動かすことにしました。LINEに来てから5カ月くらいの頃です。

──塩畑さんは阿部選手だけでなく、日本代表でオシムさんの通訳だった千田善さんとも親しかったので、そうした人脈を生かして実現した企画だったと思います。とはいえ、タイアップ抜きで企画を成立させるのは、なかなか難しかったと思うんですよ。そうして考えると、この企画、よく通りましたよね。最初から高いPVが取れることを想定して、ゴーサインが出たのでしょうか?

塩畑 LINEの場合、最初から何百万PVに跳ねることを想定して、お金を出すことはしていません。確かに「1PVいくら」というのはネットの世界での常識となっていますが、それは広告での指標でしかないんですよね。もちろん、記事の価値というものを数値化するのは難しいですが、少なくとも広告の指標と同じというわけではない。オシムさんの記事は、いわばテストのような感じでやってみたんです。今は地方紙さんに取材費をお支払いして、あのような記事を作っていただいています。

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