宇都宮徹壱ウェブマガジン

インターネット以前の偉大なインフルエンサー マラドーナの死で思い出した26年前の出来事

 ディエゴ・マラドーナが60歳で天に召されて、間もなく1週間になる。故人とチームメイトだった人、対戦した人、親交があった人、取材した人、実況した人、などなど。さまざまな関わりのある人々の追悼文を読んでいるうちに、自分もマラドーナについて何か書かなければと考えるようになった。私よりも6歳年上のマラドーナは、まさに同時代を生きた伝説的なフットボーラー。直接的に接する機会はなかったが、好むと好まざるとにかかわらず、私自身もその影響は色濃く受けている。

 まずは、個人的な昔話から披露することにしたい。1994年というから、今から26年前の話だ(と書いて、自分でも驚いている)。その頃、私は転職をしたばかり。スポーツのジャンルで定評がある映像プロダクションで、テレビ東京で放映されていた『ダイヤモンドサッカー』の制作チームに配属されることとなった。最初の現場は、キリンカップを控えた日本代表の合宿取材。監督は元ブラジル代表のパウロ・ロベルト・ファルカンで、いわゆる「ドーハ組」から大幅に刷新された日本代表の面々に大いに興奮したものだ。

 ちょうどアルゼンチン代表を控えていたので、選手への囲み取材でも「ついにマラドーナとの対戦ですね?」とか「カニーヒアのスピードをどう止めますか?」といった質問が相次いだ。取材を終えて、翌日の番組用のVTR編集にとりかかった時、テレ東のプロデューサーから「待った」の電話が入る。マラドーナの入国を日本の法務省が認めず(理由は過去の薬物乱用だった)、アルゼンチン代表が「マラドーナが入国できないなら、われわれも来日しない」という声明を出したというのだ。

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