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フットボール後進国の女性がスペインで指導者を志した理由 佐伯夕利子(日本プロサッカーリーグ常勤理事)<2/2>

トップ写真提供:日本プロサッカーリーグ

フットボール先進国から見える「Jリーグのすごいところ」 佐伯夕利子(日本プロサッカーリーグ常勤理事)<1/2>

<2/2>目次

*18歳でスタートしたスペインでのフットボール人生

*「普通の人になってしまう恐怖」とサッカーという光明

*久保建英のビジャレアル入団を間近で見て思ったこと

18歳でスタートしたスペインでのフットボール人生

──ここからは、佐伯さんのこれまでのキャリアについてお聞きしたいと思います。お生まれがイランのテヘラン。お父様が航空会社の勤務ということですが、国際線のパイロットだったのでしょうか?

佐伯 いえ、地上(勤務)です。空港所長をやっていたんですが、典型的な転勤族で、3年くらいのスパンで国内外を転々としていましたね。その後、いったんは日本に戻ったんですが、それから台湾、そしてスペインでした。

──いわゆる帰国子女だったんですね? そうした幼少期の経験というものが、のちのキャリアに影響を与えていたのではないかと、つい勘ぐりたくなるのですが(笑)。

佐伯 いつも言っていますが、私は「なんちゃって帰国子女」なんです(笑)。というのも、日本人学校にばかり通っていたし、父の赴任地もイランだったり台湾だったりしたので、英語を話す場面が皆無だったんですよ。ですから私の場合、海外の影響というよりも両親の影響のほうが、むしろ強かったように感じています。実は私の父と母は、娘である私に対して、何かを禁じたり強制したりすることが、まったくといっていいくらいなかったんですね。そういった環境が、のちの私のキャリアに影響したように思います。

──なるほど。サッカーとの出会いは、いつ、どこの国での出来事だったのでしょうか?

佐伯 サッカーとの出会いは日本で、小学1年生の時です。その時は福岡に住んでいたんですが、私は男の子を引き連れて遊ぶような女の子でした。要するに、ものすごくお転婆だったんですね(笑)。たまたま、そのうちのひとりがツヤツヤのサッカーボールを持ってきて「今日はこれで遊ぼう!」って。空き缶2つをゴールポストに見立てて、そこを通したら1点という遊びがとても面白かったんです。そこからサッカーの虜になりましたね。

──そこで気になるのが、当時の女子サッカー事情です。佐伯さんは日本にいたときに、女子だけのチームに所属した経験はあったのでしょうか?

佐伯 残念ながら私の時代には、女の子だけでサッカーができる環境というものがなかったんですよね。加えて、転々と学校が変わる境遇でしたから。台湾の日本人学校にいたときも、男の子のサッカー部に入れてもらってボールを蹴っていました。

──そうなると、オール女子でサッカーをしたご経験というのは、なかったのでしょうか?

佐伯 それが父の転勤でスペインに行ったときに、18歳にして初めて女子だけのチームに入団をさせてもらったんですね。ただしそれは、単純に女子サッカーがやりたかったという話ではなかったんですよ。実は私、他の留学生に比べて語学の上達が遅くて、それなら地元の団体スポーツに加わるのがいいというアドバイスをいただいたんです。スペインだったら、きっと自分が通える範囲の中で女子サッカーのチームがあるんじゃないか。そう思って、マドリーのサッカー協会の電話番号を調べて、連絡してみたんです。

──すごい勇気ですね。それで、どうなりました?

佐伯 「女の子のチームでサッカーがしたいんだけど、紹介してもらえない?」って、スペイン語の辞書を片手に必死で話しましたよ(笑)。そうしたら「明日の夕方、協会のオフィスに来てくれ」って。行ってみたら協会の人が地図を広げて「あなたが通えそうなチームは──」って、3カ所くらい印を付けて教えてくれたんです。ここにしますって言ったら、すぐにそこの監督に電話してくれましたね。

──いい話ですねえ! そこから、その後の佐伯さんのキャリアにつながっていくわけですよね?

佐伯 まさに、そんな感じです。そこの監督がホセさんという方で「よし、わかった。今日の夜に練習があるから来い!」って言ってくださって。それが私にとって、スペインでのサッカー人生のスタートになりましたね。

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