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東日本大震災でのJサポ団結はなぜ風化したのか?  「Football Saves Japan」10年後の述懐<2/2>

東日本大震災でのJサポ団結はなぜ風化したのか? 「Football Saves Japan」10年後の述懐<1/2>

<2/2>目次

FSJは「もともと長く続けるつもりはなかった」

SNS主体のムーブメントにはリーダーがいない?

*コロナ時代に「サポーターが何かをやるならば」

FSJは「もともと長く続けるつもりはなかった」

──被災地でない土地で暮らしていた人間にとり、震災直後の心理状態というものは「無力感」と「焦燥感」だったと思います。義援金を寄付するくらいしかできない無力感、そして普通に仕事をしていてよいのかという焦燥感ですね。清さんはどうでしたか?

 それに近い感じでしたね。あの時はTVを点けると、津波被害があったところは行方不明者ばかりだし、生き延びた人たちもずっと避難所暮らしだったし。そういうのを毎日見ていれば「何かしなければ」っていう思いになりますよね。それは僕だけじゃなく、みんなも思っていたからこそ、ものすごく限られた時間の中で支援物資を集めることができたんだと思います。

──「サッカーだから」あるいは「Jクラブのサポーターだから」あの活動が成立したという感覚って、当時からありましたか?

 あの当時、考えていたのは「サッカーファンの地元意識を健全な形に活かすことはできないか」ということでした。それにはヒントがあって、2004年にインドネシアで地震と津波があった時、それまで鋭く対立していたクラブのサポーター同士が一致団結して支援活動したことがあったんです。サッカーを超えた何かがあったとき、ライバルチームのサポーターが大同団結するというのは、トルコとかエジプトなんかでも起こっているんですよ。だから確信犯的に「これは日本でも可能なんじゃないか」とは思っていましたね。

──支援物資を集めるのも大変だったと思いますが、それを現地に運ぶのはさらに大変だったはずです。清さんにとっても、ものすごくインパクトのある経験だったと思いますが。

 個人的な部分で言うと、2回に分けて行った被災地ボランティアが一番強烈でしたね。バス2台にサポーターが分乗して、仙台市内の2つの体育館で泥出ししましたからね。それも1日で。1メートルくらいの高さで、ヘドロが積もっていたんですよ。誰もボランティアなんかやったことなくて「こんなの無理」とか思いながらもやりきりましたからね。植田朝日も、黙々と作業していましたよ。いつもだったら、何につけ黙っていられないような彼が(笑)。

──ところでTwitterのログを確認してみると、震災直後から4月いっぱいまでがFSJに関するツイートがけっこうあるんです。でも、Jリーグが再開されて5月を過ぎると、がくんと少なくなっていくんですよね。これはなぜでしょう?

 ひとつはその頃になると、支援物資がある程度は行き届くようになったというのがあると思います。それとボランティアの数も集まるようになって、僕らが2回目に現地に行った時は1回目の時と比べて、そんなに忙しくなかったんですよね。

──ちょうど、ちょんまげ隊の活動と入れ替わるような感じだったと思うんですが。

 そう。これは役割の違いなんですよね。僕らはもともと、そんなに長く続けるつもりはなくて、被災地の人たちが一番困っている時に最大限のパワーを出すほうがいいと思ったんです。あの時は政府もダメ、物流もダメという状態の中、サポーターのネットワークを使って力技でなんとかしようという話ですから。そもそも現地で、僕らがやれることのほとんどすべては、肉体作業だったわけですよ。それ以外の緻密で継続的な支援は、本来は政府の仕事であり、地域の自治体の仕事だと思っていました。

──結局のところFSJの活動って、ある種のムーブメントにはなったんですが、あまりにも瞬発的であったがゆえに一気に風化して、10年経った今ではすっかり忘れられた存在になっているように感じます。もちろんツンさんたちのように、継続的な支援活動をしている人たちは大いにリスペクトしています。しかしその一方で、清さんや朝日さんが立ち上げたFSJもまた、非常に大きな役割を果たしたと思うのですが、いかがでしょうか?

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