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宇都宮徹壱ウェブマガジン

新緑の季節に今は亡き広瀬一郎さんを想う 強行開催が濃厚となった東京五輪に寄せて

 まもなく5月が終わる。新緑が美しいこの時期、大型連休を迎える高揚感と共に思い起こすのが、広瀬一郎さんのことだ。2017年5月2日の突然のお別れから、今年で4年。広瀬さんについては、当WMでもたびたび言及している(ご存じない方はこちらのコラムをご覧いただきたい)。ご本人には、これまで何度か取材をさせていただいたが、最後のインタビュー記事も当WMで2016年に掲載されている。

 この記事は2年後の18年、無料公開としたので、お読みになった方もいらっしゃるだろう。テーマは、広瀬さんが電通から出向という形で関わっていた、2002年のワールドカップ日本招致について。インタビューの最後には、4年後に開催されるはずだった東京五輪についても、実に暗示めいたコメントを広瀬さんは遺している。少し長くなるが引用しよう(なお「あの日」とは、開催地が日本でも韓国でもなく共催に決まった、1996年5月31日のことである)。

広瀬 あの日は、僕の人生にとってもターニングポイントだったけれど、この日本という国にとってもそうだったと思っている。96年という年は、バブルが弾けてから5年くらい経っていたけれど、それからさらに15年も「失われた時代」が続くとは誰も想像していなかったわけだよ。

 もし、あそこで日本の単独開催が決まっていたら、ポストバブルの停滞期を脱して経済的にも復活できたかもしれない。日本人がちゃんと反省していたなら、もしかしたら神様は(日本単独で)ワールドカップをやらせてくれたかもしれない。でも、それってあまりにも虫がよすぎる話だよ(笑)。だって日本人って、自己客体化できないし、反省もしていない。要するに懲りていないんだよね。

──そして2002年の反省もなされないまま、2020年を迎えようとしていると。

広瀬 そうだね、ぜんぜん懲りていない。つまり検証と反省がないんだから、新国立の問題やらエンブレムの問題やらが起こって当然だよ。2002年のワールドカップが、なぜ理念がないままに行われてしまったのか。どうして2006年のドイツのようなレガシーを残すことができなかったのか。そこを検証しないまま4年後を迎えると、結局また同じことを繰り返すと、僕は思っている。

 ご存命なら65歳になっていた広瀬さん。わが国におけるスポーツビジネスの先駆者であり、教え子たちの多くがスポーツ界で活躍しているだけに、広瀬さんにも東京五輪を見ていただきたかった──。去年の3月までは、そんなことを考えていた。しかし今となっては、その考えを改めざるを得ない。国民の8割が延期もしくは中止を望み、IOCや日本政府や組織委員会が「開催ありき」の言動を見せるたびに、国民的な反発を招いている東京五輪。これほど怨嗟にまみれた「平和の祭典」を、広瀬さんが目にしなくてよかった。そう、今は心から思っている。

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