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「今はアルビレックス新潟よりも栃木SCとJで対戦したい」 大栗崇司(栃木シティフットボールクラブ代表)<2/2>

関東リーグとは思えぬスタジアムが栃木市に作られた理由 大栗崇司(栃木シティフットボールクラブ代表)<1/2>

<2/2>目次

*アルビレックスのゴール裏から日本理化工業所社長へ

JFL残留を懸けたソニー仙台戦で「スイッチが入った」

*廃校した校舎を譲り受けて栃木市に専門学校を開校

アルビレックスのゴール裏から日本理化工業所社長へ

──ここまで栃木シティFCというクラブの特殊性について、いわきFCFC今治の先行事例を出しながらお話を伺ってきました。とはいえ、いわきFCの場合はアンダーアーマーというブランドがあり、天皇杯で旋風を起こした実績もあります。そして今治には、岡田武史という絶対的な存在がありますよね。栃木シティは、何を前面に打ち出していこうと考えているのでしょうか?

大栗 どうでしょう。あまり考えたことはないですね。少なくとも栃木SCさんとの差別化という点でいえば、僕らは常にスタイリッシュな存在でありたいと思っています。それはクラブのエンブレムやロゴもそうですし、ユニフォームからスタジアムに至るまで、デザインについてはかなりうるさく口出ししています。シンボリックなエンブレムをはじめ、常にファンや地域の人たちから「カッコいい存在」であり続けたいと思っています。

──なるほど。やはりこのクラブは、大栗さんのパーソナリティというものが、非常に色濃く反映されているとのは間違いなさそうですね。そこでここからは、大栗さんご自身のお話をお伺いしたいと思います。お生まれはどちらになりますか?

大栗 僕自身は東京都品川区です。日本理化工業所の創業地も品川区なんですが、弊社創業者が(栃木県)壬生町の出身で、2代目が壬生町に工場を作って今も稼働しています。僕は社長としては6代目になりますが、ジェネレーションでいうと4世代目。僕自身が栃木に行き来するようになったのは、この会社に入社してからですね。栃木事業所で研修をしたり、お客さんを連れて行ったり。

──ご自身でサッカーをされることはなかったそうですが、アルビレックス新潟サポーター、それも関東支部として応援されていたそうですね。新潟とは、どういうつながりが?

大栗 母親の出身が新潟で、母方の祖母が長岡で暮らしています。それがつながりといえばつながりですが、初めて観戦したのは旧JFL時代(1998年)なので、まだ中学生でしたね。高校生になってから、どっぷり浸かってしまって、当時のゴール裏の人たちにかわいがってもらいました。そこで実感したのは「自分たちの応援で、選手の足を10センチでも20センチでも動かせる!」ということ。その想いは、今回のスタジアム作りにも活かされていると思っています。

──なるほど。そして高校卒業後、アメリカに留学されます。どちらの大学ですか?

大栗 オハイオ州立大学です。アメフトが強いことが有名で、キャンパスの中に10万人収容のスタジアムがあります。ただ僕の場合、向こうで学んだのはスポーツビジネスではなく、経営学でしたね。実は両親もアメリカに留学していたので、自分としては重大な決意をもってアメリカに行ったわけではないのですが(笑)。

──アメリカ留学は2000年から04年ということですが、当時はサッカークラブの経営というものはまったく考えていなかった?

大栗 まったく考えていなかったです。ただし、キャンパスに10万人収容のスタジアムがある大学ですから、否応なくカレッジスポーツの洗礼は浴びることになりましたね。向こうの企業はチームのスポンサーになることに、ものすごいプライドを持っているんですよ。しかも、お金に余裕があるから、スポンサーになっているというわけでもない。むしろスポンサーを継続するために、会社を経営していく。そこに日本との違いを痛感しました。

──なるほど。それで帰国後の2007年にお父様が亡くなられます。それから5年後の12年にこちらの会社の社長に就任されますが、その間は?

大栗 副社長に叔母さんがいたので、叔母さんが社長で僕が副社長に就任しました。当時はまだ24歳でしたし、会社に戻って1年3カ月くらいでしたから、本当に突然でした。その先の数年はプレッシャーを感じる暇がないくらい、とにかくがむしゃらで働いてきましたね。たくさんのスタッフにも助けられ、何とかここまでやってこられたという感じです。

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