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宇都宮徹壱ウェブマガジン

クラブ社長が語る「J2年代記」 松本山雅FCの場合<1/2>

 本題に入る前に、まずはハフコミの告知から。来週月曜日(6月14日)20時より、月1回のハフコミウェビナーを開催する。今回の特別講師は、先月に当WMにご登場いただいた、フードトレーナーのみとまりさん。ウェビナーの詳細については、こちらをご覧いただきたい。

「フードトレーナー」とは、アスリートを食からサポートするお仕事。みとまりさんが「パートナー」と呼ぶクライアントには、大久保嘉人(C大阪)、杉岡大暉(鹿島)、西村拓真(仙台)、三竿雄斗(大分)、旗手怜央(川崎)などなど、錚々たる現役Jリーガーの名前が並ぶ。

 次回のウェビナーも2部制。このうち第1部は、YouTube Liveで公開するので、誰でも視聴できる。主な内容は、Jリーガーの「食とパフォーマンス」、そして血液型とパワーフードとの関連性について。なかなかファンには可視化されないジャンルなので、いろいろ興味深いお話が伺えるものと確信している。第1部のYouTube LiveURLこちら。当日は皆さんからのチャットによる質問も、なるべくピックアップする予定なので、お時間がある方はぜひご参加いただきたい。

 ここから本題。今週、フットボール批評のissue32『禁断の「脱J2魔境マニュアル」』が発売された。ファンにはたまらない「J2特集」となるが、戦術や指導者へのインタビューが多くを占める中、私は歴史的なアプローチを試みることにした。題して『39番目と40番目のクラブから見た「完成されたJ2」の10シーズン』である。

 J2が定員の22クラブとなり、降格制度が初めて導入された2012年から、今年で10シーズン。この10シーズンを、松本山雅FCの神田文之社長、そしてFC町田ゼルビアの大友健寿社長、それぞれの視点から振り返るというのが全体の構成である。なぜ、この2クラブの社長なのか? それは本稿をご覧いただければ、ご納得いただけるはずだ。

 この8000字の原稿を、松本山雅と町田ゼルビア、それぞれ独立として物語として成立させたのが本稿。もちろん、ただ切り分けたのではない。社長インタビューという取材ソースに、過去の自分の取材や原稿を織り込むことで、それぞれ1万字におよぶ徹ルポとしてアウトプットすることにした。今週はまず、松本山雅篇をお届けする。古参サポはもちろん、最近の山雅しか知らない世代にも、お読みいただければ幸いである。

<1/2>目次

*北信越2部時代の思い出と予想外のオファー

*J2初挑戦での12位は「満足できる結果」

*設立50周年でたどり着いたトップリーグ

北信越2部時代の思い出と予想外のオファー

「まつもとぉ~、まつもとぉ~」

 一度聞いたら絶対に耳から離れない、JR松本駅の独特の構内アナウンス。信州・松本を訪れるのは「ソリさん」こと反町康治の松本山雅FCラストマッチとなった、2年前のJ1最終節以来のことだ。コロナ禍ですっかりご無沙汰してしまったが、この地を再び訪れることに、深い感慨を覚えずにはいられない。

 ちょうどGWの終盤ということもあり、松本の観光スポット周辺はどこも人で溢れていた。とはいえ、今回の来信の目的はもちろん観光ではない。この日は『喫茶山雅』にて、株式会社松本山雅の社長、神田文之のインタビューが予定されていた。前社長の大月弘士には何度か取材をしているが、現社長にじっくり話を聞くのは今回が初めて。挨拶もそこそこに、まずはこのクラブとの最初の縁(えにし)について語ってもらった。

「当時(2005年)所属していたFCホリコシ(のちのアルテ高崎。2011年解散)のチームメイトを通じて、クラブ関係者から『半年でもいいから、力を貸してくれ』という話をいただいたのがきっかけです。山雅の印象ですか? とにかく素朴で温かみがあって、当時の八木(誠)代表を含めて、クラブを運営している人たちの顔がよく見えましたね。その意味では居心地は良かったんですけれど、このクラブがJリーグに到達するには、まだまだ時間がかかるだろうというのが、その頃の率直な印象でした」

 神田は1977年生まれで山梨県出身。東京学芸大学を卒業後、2000年にヴァンフォーレ甲府に入団し、この年にJ2リーグで13試合に出場している。その後、移籍したFCホリコシで「そろそろ選手生活から足を洗おうか」と思っていたときに、声をかけてきたのが、当時北信越リーグ2部に所属していた松本山雅FCだった。

 2005年の山雅といえば、クラブが将来のJリーグ入りを標榜し、その運営母体としてASP(アルウィン・スポーツ・プロジェクト)というNPO法人を立ち上げた年でもあった。その記念すべきタイミングで、のちにクラブ社長となる神田が(わずか3カ月間とはいえ)、プレーしていたという事実は興味深い。

「あれはアルウィンでの最終節だったと思います。北信越1部の昇格が決まったんですけど、その時に1000人を超えるサポーターが来ていて、スタンドからグリーンのテープが一斉に投げ込まれたんですよね。とても地域リーグの2部とは思えないくらいの盛り上がりでした。実はその時に『ウチに残らないか?』というお話もいただいていたんです。でも、選手としてひと区切り付けることは決めていましたし、居心地が良いから残るのも違うかなと。それで、その年限りでスパイクを脱ぐことにしました」

 かくして2005年をもって、いったん山雅と袂を分かつこととなった神田は、東京の大手不動産会社に就職。営業として働きながら、週末は東京都リーグで草サッカーに興じる生活を続けていた。一方の山雅は、2009年の地域決勝に優勝してJFLに昇格すると、2年後にはJFLを4位でフィニッシュ。悲願だったJ2昇格を果たしている。山雅にとって、まさに「激動」そのものだった2011年は、ようやく不動産営業の仕事に慣れてきた神田にとっても、強く印象に残るシーズンだったという。

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