宇都宮徹壱ウェブマガジン

開幕の光景と近所での五輪 TOKYO2020点描<1/2>

 2021年にTOKYO2020が開催されるまで、日本人にとっての「東京五輪」とは、無条件で昭和39年(1964年)のそれであった。かくいう私が生まれたのは、その2年後。ぎりぎり、前回の東京五輪を知らない世代となる。

 今回のTOKYO2020については、往時を知る老人たちの「ノスタルジア」が出発点だったと、私は今でも思っている。「東京に再び五輪を!」の言い出しっぺである石原慎太郎は、五輪開幕日の1964年10月10日は32歳。東京オリパラ組織委員会会長として、大会を迎えられなかった森喜朗は27歳だった。内閣総理大臣の菅義偉は15歳、東京都知事の小池百合子は12歳、そして大会開催の1年延期を決めた前首相の安倍晋三は10歳──。

 すでに人気作家としての地位を確立していた人、新聞記者から政治家への転身を図っていた人、あるいは秋田県の高校生だった人、兵庫県や東京都で小学生だった人。「その日」を迎えた時の身分も場所もさまざま。それでも、彼らの東京五輪の記憶というものは、それほど大きなズレはなかったはずだ。

 晴れ渡る10月の空に、ブルーインパルスが描いてみせた五つの輪。男女とも赤いブレザーを着て、晴れがましく行進する日本選手団。昭和天皇による開会宣言と、上空に飛び立つ無数の鳩。そして広島の原爆投下から3時間後に県内で生を受けた、19歳の青年による聖火台への点火。

 それらの映像は、日本人の誰もが「共有可能な記憶」として定着していく。そして大会前の戦後復興、さらには大会後の高度成長期のイメージとつながることで、1964年の東京五輪は高揚感あふれる「国民的メルクマール」へと位置づけられていった。その美しき記憶のシークエンスは、時代が昭和から平成、さらには令和へと移ろいでいく中でも色褪せるどころか、むしろ凋落傾向にある国情と反比例するかのように、必要以上の輝きを放つようになっていく。

 2021年の東京五輪を、私は55歳の東京都民として迎えることになった。よほどのことでもない限り「次」はないはず。しかも、コロナ禍での緊急事態宣言下で開催され、一部の例外を除いて無観客で開催される「異常な大会」であった。そんな二度目の東京五輪は、どのような「共有可能な記憶」や「国民的メルクマール」を残すのであろうか。

 プレスパスを持たない、いち東京都民の私。本稿は大会期間中、そのヒントを探し求めて都内を彷徨った記録である。

 東京五輪開幕日の7月23日、東京の空は雲が多い青空。1964年の10月10日も青空が広がっていたそうだが、これほどギラついた感じではなかったはずだ。カミさんはブルーインパルスの飛来を期待していたが、わが家のベランダからは確認できず。日差しがやや落ち着いた16時30分、カミさんと出発。中央線と総武線を乗り継いで、千駄ヶ谷駅を目指す。

 千駄ヶ谷駅は言うまでもなく、開会式が行われる国立競技場の最寄り駅。スタジアムが新しくなって以降は、天皇杯やルヴァンカップの決勝でたびたび訪れている。案の定、いつも見慣れた駅前の風景は、多くの警察官と見物人とでごった返し、祭典の高揚感とは明らかに異なる空気が横溢していた。

 最も目立っていたのは、五輪反対のシュプレヒコールを挙げる一団。彼らの怒りと焦燥のボルテージは、開会式を目前に最高潮に達していた。それにしても、本来であれば「平和の祭典」であったはずの五輪が、さながら原発の是非や沖縄の基地問題のごとく、国民の分断を誘発するとは思わなかった。大会後、スポーツそのものを嫌悪する層が増えることを憂うばかりである。

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