宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料公開】モリヤスハジメとは何者か? 後藤健生✕中野和也✕宇都宮徹壱<1/2>

 今月は5週あるので、当WMのアーカイブから無料公開することにしたい。今回、蔵出ししたのは、2018年10月17日に東京・高円寺のKITENにて行われたWMイベント「徹底討論! 森保一とジャパンズウェイ」第1部の模様を無料公開とする。ゲストにお招きしたのは、サッカージャーナリストの後藤健生さん、そして紫熊倶楽部編集長の中野和也さんという豪華な顔ぶれである。

 おりしもワールドカップ最終予選の10月シリーズが近づいてきた。日本代表は10月7日(現地時間)にアウェーでサウジアラビアと、そして12日にホームでオーストラリアと対戦する。オマーンとの初戦に敗れている日本は、序盤の2試合を終えて4位スタート。「まだ5分の1が終わっただけ」と見ることもできるが、次の相手はポット3とポット2。森保一監督にとっては、まさに「進退を懸けた」連戦となる。

 今月28日、2試合の日本代表メンバーが発表されたが(参照)、大きなトピックスはなし。これに加えて、森保監督の采配やチームマネジメントについても、たびたび課題が指摘されている。とはいえ、そもそもなぜこの人が、日本代表監督に就任することになったのか──。その背景や前提について、あらためて押さえておく必要性を感じていた。

 このイベントでは、森保監督の日本代表デビュー戦を取材している後藤さん、そして1995年から一貫してサンフレッチェ広島を取材してきた中野さん、それぞれの視点から「モリヤスハジメとは何者か?」について語り合っていただいた。ちょうど森保体制がスタートした時点での対談であるが、3年後に読み返してみても、いろいろと味わい深い内容となっている。来週からの代表ウィークを前に、広くお読みいただければ幸いである。(収録日:2018年10月17日@東京。文中の肩書は当時)

<1/2>目次

*「僕は『モリヤスハジメ』と読めましたよ(笑)」

*長崎日大からマツダへ、そしてオフトとの出会い

*オフトからも広島からも頼りにされていた理由

写真提供:紫熊倶楽部

 ■「僕は『モリヤスハジメ』と読めましたよ(笑)」

 ──まずは登壇者のおふたりをご紹介したいと思います。後藤健生さんについては、もはや説明の必要はありませんよね。これまでのサッカー観戦試合数は6100を超えているとのことですが、昨日のキリンチャレンジカップ、日本対ウルグアイで何試合目になりましたか?

後藤 昨日で6124試合目です。まだ何も成し遂げていません(笑)。7000試合達成まで、あと900試合近くありますから4年後、カタールのワールドカップが終わるくらいですかね。次のカタール大会は移動が楽だから、頑張れば1日3試合は見られそうです。たぶん(大会期間中は)48試合は見られるんじゃないかと思っています。

──もうひとりの登壇者は、紫熊倶楽部の編集長、中野和也さんです。中野さんは、フリーランスのクラブ番記者のパイオニアと呼んで差し支えない方で、サンフレッチェ広島をかれこれ……いつからでしたっけ?

中野 1995年からなので、23年ですかね。広島在住なんですが、昨日の代表戦を取材して、今日はこのイベントに出演させていただきました。明日は富士山麓で2泊キャンプして、それから日本平での清水エスパルス戦を取材する予定です。後藤さんの6124試合には遠く及びませんが、サンフレッチェに関しては98年から全試合を見ていますね。

──全試合? ルヴァンカップも天皇杯もACLも?

中野 はい。キャンプもフル参戦しております。ACLのブニョドコルとのアウエー戦でウズベキスタンに行った時は大変でした。後藤さんは何度も行ったことがあると思いますが。

後藤 そんなにサッカーって面白いんですか(笑)?

中野 どうですかね(笑)。間違いなく言えるのは、サンフレッチェがちょっと変わったクラブなので飽きないですね。

──国内でのアウェー取材は、基本的に車ですか?

中野 そうですね。今回も広島から車で来ました。往復で約1800キロ。今日はうちの女房も来ているんですけど、彼女はフォトグラファーでサンフレッチェの試合にはいつも一緒に行きます。運転の7割くらいは女房が担当してくれていますね。まあタグマ!さんのおかげで、最近はアウェーも全部行く番記者さんは増えましたけど、夫婦揃って車で全試合というのは、たぶん他にはいないでしょう(笑)。

──という、すごいおふたりと一緒に、今日は「モリヤスハジメとは何者か」について考えていきたいと思います。まずは森保さんの現役時代ということで、こちらのパワーポイントをご覧ください。日本代表と広島時代の写真を並べてみたんですが、広島時代の写真はキャプテンマークを付けていますね。

中野 これは1995年の写真ですね。風間八宏さんが前年に退団されて、次の年からキャプテンを引き継いだんですよね。

──後藤さんが、森保一という選手の存在を知ったのは、いつでしょうか?

後藤 どのタイミングと言われてもよく覚えてないですけど、少なくともハンス・オフトが日本代表に招集した時には、僕は「モリヤスハジメ」と読めましたよ(笑)。ただ、オフトがなぜ彼を呼んだのかは、はっきりとわからなかった。「やっぱりマツダつながりなのかな」くらいの印象でしたね。

──ハンス・オフトは1982年に来日してヤマハのコーチとなり、84年から88年まではサンフレッチェ広島の前身であるマツダでコーチを務めています。のちにGMとなる今西和男さんとのコンビは当時から有名でした。中野さんが森保さんを初めて意識されたのは?

中野 僕の場合、92年に広島で開催されたアジアカップでしたね。この時の日本代表には、高木琢也、前川和也、そして森保一の3人が広島から選出されていたんです。当時、僕は広島でリクルート系の仕事をしていたので、よく覚えています。よくてベスト4だと思っていたので、日本が優勝したのにはびっくりしました。

──後藤さんも当時は勤め人で、大会期間中は東京と広島を往復していたんですよね?

後藤 そうそう。普段は夜行バスを利用していたんだけど、準決勝の中国戦は飛行機を利用したんだよ。会場が広島スタジアムで、当時の広島空港の近くにあったんだ。それで、てっきり日本対中国が第2試合だと思っていたら第1試合で(笑)。滑走路を走っている飛行機の窓から電光掲示板が見えて、「日本対中国」って書いてある。調べたら、第1試合だった。空港からスタジアムまで、慌てて走ったのをよく覚えています。あのスタジアムは、そういう意味では便利でしたね。

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