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【無料公開】モリヤスハジメとは何者か? 後藤健生✕中野和也✕宇都宮徹壱<1/2>

写真提供:紫熊倶楽部

■オフトからも広島からも頼りにされていた理由

──森保さんの代表デビューは、1992年5月31日のキリンカップ、対アルゼンチン戦でした。これは代表監督に就任したオフトの初陣だったわけですが、やはりマツダ時代の計算できる選手を起用したいというところから抜てきしたんでしょうか?

後藤 自分のサッカーを一番理解している選手を連れてきた、ということでしょうね。これはオフトに限ったことではなく、代表監督だとわりとよくある話ですよ。イビチャ・オシムだって、自分が育てたジェフユナイテッド千葉の選手をたくさん代表に呼んだじゃないですか。今の森保監督だって、青山敏弘を中心に据えようとしている。

──オフト時代の日本代表って、今から四半世紀前の話なので、若い方にはちょっとイメージできないと思います。後藤さん、簡単に解説していただけますでしょうか。

後藤 オフトのサッカーの特徴は、わかりやすくいうと「個々の選手にタスクを課していた」ということですね。君はこれをしなさい、これはやってはいけません、ということを全部割り振ったサッカーだったわけ。

 それを一番わかっている選手だったから、森保を選んだわけでしょうね。森保とポジションが被る選手としては、ジュビロ磐田の吉田光範がいたんだけど、身体能力で言ったら吉田のほうが高かった。だからもし、オフトの代表監督就任がもっと早かったら、森保ではなく吉田を選んでいたかもしれない。

──そういうタイミングって、すごく大事ですよね。もうひとつ忘れてならないのが、当時の日本代表が「ラモス瑠偉ありき」のチームだったことだと思うのですが。

後藤 そうそう。ラモスにわがまま勝手なプレーをしてもらわないと、クリエイティブなゲームができなかったのが当時の日本代表。オフトもそこは認めざるを得なかった。そうなると、ラモスの近くできっちりタスクをこなす選手が必要になるわけで、それで森保があのチームで中心になっていったんだろうなって理解しています。

──なるほど、ラモスを自由にプレーさせるために森保が中盤で一生懸命働いていた、というわけですね(笑)。中野さんはサンフレッチェを取材するようになって、広島でプレーする森保選手をどういう風に見ていたのでしょうか?

中野 94年にファーストステージ優勝した時、広島は風間八宏と森保一のダブルボランチだったんですね。代表での森保さんは、ワンボランチでディフェンスラインに近いところでプレーしていたと思うんです。でも当時の広島では、むしろ風間さんがその役割で、森保さんは猟犬のようにボールに食いついていました。今の広島でいうと、稲垣祥みたいな感じ。ところが京都パープルサンガにいったんレンタルされて、戻ってきたときには風間さんみたいなプレースタイルになっていましたね。

──そうか、98年の京都はレンタルだったので、いったん広島に戻ってきたんですね。

中野 実は当初は、完全移籍という話だったんですよ。広島はその時、経営危機で選手を売らなければならなかった。一方の京都はオフトが監督になって、やっぱり中心選手に森保がほしかった。ところが広島の選手とサポーターが「ポイチさんは残してほしい」という運動を起こして、それで最終的にレンタルで落ち着いたんですよね。ちなみに久保竜彦なんかは「森保さんがおらんと、俺は何もできん!」って言っていましたね(笑)。

──ところが広島でも次第に出番がなくなって、2002年にベガルタ仙台に移籍。ここで2シーズン、プレーしたのちに現役を引退します。

中野 2001年に森崎和幸が出てきて、森保さんはポジションを失うんですね。そのままスタッフになる話もあったんですけど、本人は現役にこだわって仙台に移籍したんです。03年には佐藤寿人ともプレーするんですが、その年に仙台のJ2降格が決まったということもあって、シーズン終了後に森保さんは現役を引退することになります。

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