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【無料公開】今こそ振り返ろう。Jリーグでの10シーズン クラブ社長が語る「J2年代記」松本山雅FCの場合<1/2>

設立50周年でたどり着いたトップリーグ

 続く2013年は、J1昇格プレーオフまであと一歩の7位。そして14年は、自動昇格となる2位に上り詰め、山雅はついにトップリーグまで駆け上がることとなる。地域リーグからJ1までの到達年数で言えば、大分トリニータの8年がそれまでの最速。山雅は2年早い6年で、この快挙を成し遂げてしまった。そして神田自身も、山雅に来てわずか3年目にして、社長就任という予想外のオファーを受け入れることとなる。

「(社長就任の話は)昇格が決まった年の10月くらいでしたかね。社内の食堂で、大月さんから『次の役員会で推薦するから』って、しかも立ち話ですよ(笑)。山雅に来て3年間、一度もそんな話はなかったですからね」

 NPO法人だったASPに代わる運営組織として、株式会社松本山雅が設立されたのは、JFLに昇格した2010年のこと。初代社長となった大月は、戦前から続く酒屋の社長との兼任だった。このままクラブがカテゴリーを上げていく中、いずれはプロの経営者が必要と考えたのだろう。「一度もそんな話はなかった」と神田は語っているが、大月の中ではJ2昇格が決まった時点から、おそらく一本の道筋が見えていたのではないか(もっとも、これほど早くJ1に到達できるとは、さすがに考えていなかっただろうが)。

 明けて2015年の3月7日、山雅はJ1クラブとしての初戦を豊田スタジアムで迎えた。この日、名古屋グランパスのファンである妻と一緒に、私はこの試合をスタンド観戦している。試合は32分にオビナのゴールで山雅が先制。いったんは追いつかれるも、63分に池元友樹、76分に喜山康平がネットを揺らして2点差に引き離す。結局、33で終了するも「J1でもやれる!」という手応えが、選手にもサポーターにも感じられる内容だった。

J1になってから、アルウィンでのホームゲームを含めて、何もかもが華やかになりましたよね。サポーターの皆さんにとっても、おそらくそう思っていただいていたでしょう。アウェーもそうだし、J1のサポーターが松本に来てくれるのもそう。『夢が実現すると、こんなに楽しいんだ!』ということを実感できたシーズンでした。しかも、クラブ設立50周年という節目の年でしたし」

 山雅のJ1昇格は、長年このクラブをウォッチしてきた私にとっても、いささか予想外の慶事であった。当時の偽らざる心境は「ちょっと早すぎたのでは?」というもの。この年、山雅のイヤーブックに寄稿したコラムから引用しよう。

 かくして、今季15年シーズンをJ1で戦うこととなった山雅だが、いささか心配していることもないわけではない。戦力面以外でも、J1というこれまでのカテゴリーでは想像もつかないような殺伐としたリーグで戦うことに、若干の不安がないわけではないからだ。

 特に、集客面で張り合う浦和レッズやアルビレックス新潟やFC東京、あるいはマツ(註:松田直樹)のことで深い因縁ができてしまった横浜F・マリノスとの対戦で「かわいがり」を受ける可能性は十分にあると思う。そんなことを考えると、私の中では今でもJ1昇格は「ちょっと早すぎたんじゃないか」と思ってしまう。

 この年のJ1は2ステージ制で行われた。1stステージは4勝3分け10敗、2ndステージは3勝4分け10敗で、いずれも15位。総合順位で16位となり、1年での降格となった。それでも、トップリーグでの経験は「将来にわたって山雅に関わる、すべての人たちのモチベーションアップにつながりましたね」と神田は総括する。

「僕ら自身もアウェーに行くたびに、J1クオリティの運営や演出といったものを学ばせていただきました。J1に上がったからと喜ぶだけなら、トップカテゴリーに居続けるのは厳しい。この年に『松本山雅ドリームビジョン』というものを打ち出したのも、50年先や100年先を見据えたビジョンの必要性を感じたからでした」

 松本山雅FCは、1965年をクラブ設立年としている。奇しくも、日本最初のサッカーの全国リーグであるJSLがスタートした年だ。それから、ちょうど半世紀後にたどり着いた、J1という名のトップリーグ。この2015年という年は、クラブ設立100周年を迎えた時、どのように記されるのであろうか。

<2/2>につづく。文中敬称略

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