宇都宮徹壱ウェブマガジン

東方から飛来した謎のチーム ロンドン 1945 復刻版『ディナモ・フットボール』<1/4>

 今週はGW特別企画、2002年にみすず書房から上梓した『ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー』から、プロローグを含む4話分を4日連続で公開する。本日お届けするのは、本書のプロローグに当たる「東方から飛来した謎のチーム ロンドン 1945」である。

 その前に「20年後の前口上」ということで、なぜこのタイミングで「ディナモ」なのかを解説しておきたい。今週は地方取材が続くため、更新が難しいという現実的な理由もないわけではない。が、それ以外に3つの重要な理由がある。

 まず、今年は『ディナモ』発表から20年という節目の年であること。次に、ロシア軍によるウクライナ侵攻を考える上で、本書が何かしらのヒントを与えられるのではと考えたこと。そして、当WMでの掲載が『ディナモ』復刊へのきっかけになるのではと密かに期待していること。

 3番目については、まったくの願望である。それでも本稿をお読みいただければ、2002年に発表された『ディナモ』が、2022年の今こそ読みつがれる価値があることを、ご納得いただけると確信している。もし関心を持たれた出版業界の方がいらしたら、当WMまでご一報いただければ幸いである。

 19451121日。上空を晩秋の陰鬱な霧が覆っていたこの日の午後、ロンドンで何とも奇妙なフットボールのゲームが行われようとしていた。 

 それはアーセナルのホームゲームであった。が、舞台は本拠地・ハイバリーではなく、何故か「永遠の宿敵」トテナム・ホットスパーのホーム、ホワイト・ハート・レーンだった。

 フィールドに現れたアーセナルの面々もまた、実に奇妙だった。確かに、主将のバーナード・ジョイ以下、何人かはガナーズ(アーセナルの愛称)のお馴染みの顔ぶれだ。しかし、この日ピッチに登場したのは、さながら「英国代表」と呼んでも差し支えない、実に豪華なメンバーであった。ブラックプールのスター選手、スタン・モルテンセン、2列目の名手、フルハムのロニー・ルーク、さらにストーク・シティの偉大な右ウイングで、のちに「サー」の称号を得ることになる伝説のフットボーラー、スタンリー・マシューズまでもが、この日はアーセナルのユニフォーム姿で顔を揃えていたのである。 

 だが、極めつけに奇妙だったのは「アーセナル」の名を借りた「英国代表」と対戦する、ヴィジター・チームの存在であった。 

 まず、彼らは試合前に、まるで陸上選手のように入念なストレッチ体操を行っていた。それは、当時の英国ではほとんど見られなかった光景である。加えて、彼らのユニフォームには背番号がついていなかった。1933年のFAカップ決勝で初めて導入された背番号制度は、すでに英国ではすっかり定着していたが、彼らは真新しいブルーのユニフォームに背番号を縫いつけることを頑なに拒否した。 

「我々は、全く慣れていないものを着用して、プレーするリスクは負いたくない」

 そう主張する彼らの祖国では、どうやら「背番号」というもの自体が存在しなかったらしい。だが、それ以上に「勝利に寄与しないもの一切を排除する」という彼らの姿勢は徹底していた。英国人が差し入れた熱い紅茶は、結局誰にも顧みられることなく冷たくなっていた。

「フットボールの母国」と呼ばれるイングランド。そのなかでもロンドンを拠点とするアーセナルは、名門の誉れ高いクラブのひとつである。設立は1886年(日本でいえば明治9年)。伝説的な名監督、ハーバート・チャップマンに率いられたチームは、1930年代に最初の黄金時代を迎え、リーグで5回、FAカップで2回、それぞれ優勝を果たしていた。

 それに対してヴィジター・チームは、これまで全く世界に知られていない、謎めいた存在であった。それ以前に、彼らの祖国でフットボールが行われていること自体が、大部分の英国人には想像を絶するようなおとぎ話でしかなかった。 

 だが、突如として東方から飛来した謎のチームは、すぐさま英国中を驚嘆させる偉業をやってのける。先週、彼らは同じロンドンでチェルシーに3-3と引き分け、4日前にはウェールズでカーディフ・シティに何と10-1という圧倒的勝利を収めていたのである。 

 英国の新聞はこぞって、ゲームの結果をセンセーショナルに書き立てた。そして英国国民は、彼らが単に「母国」の胸を借りにやってきた「従順な巡礼者」ではなかったことを認めざるを得なかった。やがて人々の間では、盛んにこのチームの名が話題に上るようになる。 

「ディナモ・モスクワ」

 謎のチームは、ソヴィエト社会主義共和国連邦という「よく分からない国」からやってきた。 

 ロンドン市内を覆っていた霧は、次第にその濃度を増してゆく。試合開始直前、アーセナル 側から「ゲーム延期」の打診があった。しかしディナモ側は、予定通りの開催を主張。彼らのアーセナル戦に懸ける意気込みには、並々ならぬものがあった。さらに間の悪いことに、チケットはほぼ完売しており、スタンドには54000人ものファンが詰めかけていた。

 結局、アーセナルは「どんな天候でもゲームは行われる」という英国フットボールの伝統を遵守することを決意。かくして、アーセナルとディナモ・モスクワによる「歴史的なゲーム」は、無事キックオフを迎えたのである。 

 ディナモ・モスクワの「英国遠征」。それは、不幸な戦争によってブランクとなっていた 1945-46シーズン において、一際異彩を放つ伝説的な事件である。 

 英国は、先の大戦でナチス・ドイツに勝利したものの、1940年夏から度重なるドイツ軍の空爆を受け、甚大な戦禍を被っていた。戦時下においてフットボールが無力であったことは、当時も今も変わらない。イングランドでは、1938-39シーズンのエヴァートンの優勝を最後に、リーグ戦は46年まで中断。由緒あるFAカップも、5年間開催されることはなかった。 

 名門・アーセナルもまた、第2次世界大戦の硝煙とは決して無縁ではなかった。本拠地のハイバリーは空爆によって破壊され、しばらくの間、トテナムのホワイト・ハート・レーンを間借りすることを余儀なくされた。また、プロ契約選手46名のうち44名が軍の召集を受け、その大半は国外の戦地で祖国のために闘っていた。他のクラブもまた、多かれ少なかれ似たような状況で、国内に残ったメンバーでチームを再編成し、来るべき全国リーグ再開を見据えながら、南北に分かれてささやかなリーグ戦を行っていたのである。 

 ファシズムとの「熱い戦争」が終結して間もない1945年晩秋は、幸いにしてコミュニズムとの「冷たい戦争」は、まだ始まってはいなかった。ナチスの戦争犯罪人を裁くニュルンベルク国際軍事裁判が開廷するのは、ディナモの遠征中の出来事で、ゲーリングやリッペントロップといったヒトラーの腹心たちは、まだ存命であった。ゆえに当時の英国の人々は、東の独裁者・ スターリンに対する警戒心はあったものの、ソ連とその国民に対しては、むしろ「共にナチスと闘った同盟国」としてのイメージのほうが強かったようである。ディナモのメンバーが到着したときにも、国内は一様に歓迎ムードに包まれていた。 

 例えばディナモの訪英翌日、ある地元紙は「ロシア人がホテルを見つけられず、ロンドンで途方に暮れている」と報じた。終戦直後の混乱から、選手が満足に休息できるホテルが確保できず、ディナモの選手とスタッフは3カ所に分かれて、霧の都での最初の夜を過ごすこととなった。やがて、新聞を読んだロンドン市民から「宿を提供したい」という申し出が、ソ連大使館とFA(フットボール・アソシエーション=イングランド・フットボール協会)に300件近く寄せられる。結局、インペリアル・ホテルがディナモの選手団を受け入れることとなり、宿泊問題は3日目に解決した。 

 そんな美談がある一方で、英国人は「フットボールの母国」としてのプライドを誇示することも決して忘れてはいなかった。 

「英国のプロチームと対戦するには、アマチュアのディナモはあまりに弱過ぎる」

「彼らは、暇な時間を見つけては毎夜練習に励む、フットボールの初心者、あるいはフットボール好きの労働者の集団に過ぎない」 

 このような明らかに相手を見下した論調が、地元紙の紙面を埋め尽くしていた。 

 さて、この英国遠征にあたって、ディナモは事前に「14カ条の要請書」なるものをFAに提出している。いささか長くなるが、当時の両国のフットボール事情を知る上で重要な資料であると思われるので、以下引用する。

 01 ディナモはクラブチームであるため、対戦相手もクラブチームに限る。

 02 1週間に1試合以上は行わない。

 03 ゲーム開催は、英国で通常開催される土曜日に行われることが望ましい。

 04 対戦相手のなかに、アーセナルが含まれることを期待する。

 05 ディナモの選手は、背番号なしのユニフォームでゲームを行う。

 06 最低1試合は、ディナモが用意したロシア人レフェリーが主審を行う。

 07 試合途中で、両チームとも選手交代ができるようにしたい。

 08 対戦するチームは、ゲームの数日前に全出場選手のリストをディナモ側に提出しなければならない。リストにない選手の出場は認められない。

 09 ディナモは、FAが提示する報酬の条件に同意する。

 10  試合前に、開催が予定されているスタジアムでの練習を望む。

 11 ディナモが対戦するクラブのゲームを観戦する機会を望む。

 12 ディナモは、ソ連大使館で食事をとる。 

 13 現地で働くロシア人のために、1試合につき600枚のチケットを確保してほしい。

 14  今回のディナモの訪英は、フットボールの親善試合が主目的であるため、社会的・文化的行事での選手の参加を制限することを望む。 

 このうち、FAで特に問題になったのが、条項の050607であった。いずれも英国・ソ連、両国のルールの違いが、その背景にあった。

 05の背番号の条項については、冒頭で紹介した通りである。英国では、30年代後半には背番号制度が定着していたが、ソ連ではまだその習慣がなかった。 

 06のレフェリーに関する条項は、ロシア人の主審の公平性よりも、むしろ主審が英国のルールに熟知していないことが懸念された。一例を挙げると、英国で自由に行われていたゴールキーパーのパンチングやパントキックは、当時のソ連では禁じられていたのである。

 07の選手交代についても、FAは当惑した。当時、英国はもとより、他の国々でも選手交代のルールは実施されていなかったからだ。イングランドで初めて選手交代が認められたのは、20年後の1965年。ただし、プレーヤーが負傷した場合に限定されていた。ちなみにワールドカップで選手交代が認められたのは、1970年のメキシコ大会以降のこと。それまでは、負傷者を出したチームは10人(あるいは、それ以下)で闘わなければならなかったのである。 

 結局、FAはディナモに大幅に譲歩して、リクエストのほぼ全てを認める判断を下す。選手交代については、「プレーヤーが負傷し、試合続行が不可能と判断された場合に限り、3人までの交代を認める」ことで同意した。また、当初予定されていたチェルシー、カーディフ・シティとの2試合に加えて、アーセナル、グラスゴー・レンジャースとの対戦が決定。ディナモから指名を受けたアーセナルは、喜んでこの申し出を受け入れた。 

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