宇都宮徹壱ウェブマガジン

「ディナモ」の源流を求めて モスクワ 2001 復刻版『ディナモ・フットボール』<4/4>

オー・スポルト・ティ・ミール モスクワ 2000 復刻版『ディナモ・フットボール』<3/4>

 

 今週はGW特別企画、2002年にみすず書房から上梓した『ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー』から、プロローグを含む4話分を4日連続で公開する。本日お届けするのは「『ディナモ』の源流を求めて モスクワ 2001」。WMでの復刻版は、これがラストである。

「ディナモ」を求める私の旅は、2回に分けて行われた。2000年には、ベルリン、ワルシャワ、キエフ(現キーフ)、モスクワ、そしてトビリシ。2001年には、モスクワ、ブカレスト、そしてザグレブ。モスクワを再訪したのは、1945年のディナモの英国遠征の生存者に話を聞くためであった。

 その人の名は、ウラジミール・サヴドゥニン氏。1924年生まれで当時76歳だった。ディナモのプレスオフィサー、オレグさんの尽力により、当時の貴重な証言を得ることができた。なおサヴドゥニン氏は、取材から7年後の2008年に84歳で死去。イビチャ・オシムさんが亡くなった時にも痛感したが「あの時、話を聞いておけばよかった」という後悔は、なるべくしたくないものだと心から思う次第だ。

 待ちわびていた春は、もう間もなくであった。

 シェレメチヴォ空港からタクシーで中心街に向かう途中、漆黒のモスクワの夜空を仄かに照らす、光り溢れる建造物が前方に現れる。 

「ディナモ!」

 運転手が叫ぶ。懐かしのディナモ・スタジアム。今夜は、ディナモ・モスクワとクリリヤ・ソヴィエトフ・サマラによるシーズン開幕戦が行われる日であった。ロシア・リーグの開幕は、Jリーグと同じく3月上旬。長く厳しい冬の季節を耐え忍んできたモスクワの人々にとって、リーグ開幕は待望の春の到来を告げる慶事であった。

 昨年の秋に訪れた時には、何ともみすぼらしく映ったディナモ・スタジアム。だが今宵は、眩いばかりの照明塔の光が上空の冷気に乱反射して、神秘的な美しさを周囲に放出している。 

 モスクワを再訪して本当に良かった。つくづく、そう思う。 

 ディナモは昨シーズン、12810敗の5位に終わった。優勝はもちろん、スパルタク。そして近年、スパルタクを脅かす存在となっているロコモティフ・モスクワが2位、最終節のアンジ・マハチカラ戦でロスタイムに劇的な決勝ゴールを挙げたトルペド・モスクワが3位を確保した。もし、このゲームが引き分けに終わり、ディナモがアウェイでサターン・ラメンスコエに勝利していれば、ディナモがトルペドに代わって3位に上り詰めていたはずだった。しかし、結果は0-1。監督のヴァレリー・ガザエフは、試合後に辞意を表明したが、翌日にはすぐさま前言を撤回した。今季のディナモも、明るい材料に乏しい。 

 相変わらずモスクワ勢が上位を占めた昨シーズンだったが、ちょっとしたリーグの地殼変動が見られた。その主役となったのが、最終節でトルペドに敗れたものの、ディナモを押しのけてシーズンを4位で終えたアンジ・マハチカラである。 

 今なお紛争の絶えないチェチェン共和国に隣接する、ダゲスタン共和国の首都・マハチカラを本拠とするこのクラブは、昨シーズンに2部から昇格したばかりの「非ロシア系のクラブ」である。だが終わってみれば、大方の予想を覆して4位に躍進。アンジはその後、ロシア・カップでも準優勝し(優勝はトルペド)、UEFAカップ出場権を獲得することとなる。

 国内リーグは、依然としてスパルタクのタイトル寡占状態が続いているが、一方で、アンジのような辺境の地方クラブも着実に実力をつけてきている。ソ連邦崩壊後、時代の潮流から取り残されたままのディナモは、とうとう無名の地方クラブにまで追い抜かれてしまった。 

 そんな「ディナモ」を追い求める私の旅は、世紀を越えて今も続いている。昨年の夏から秋にかけて、私は旧ソ連の「ディナモ」を中心に取材を続けてきたが、東欧諸国にはまだ見ぬ「ディナモ」が存在する。そして何よりも「ディナモ」の故郷・モスクワには、まだまだ見るべきものがあり、また、会っておくべき人がいた。 

 そんなわけで私は、toto人気で沸くJリーグ開幕戦を観ることなく、今や絶滅寸前となって久しい「煙草が吸える国際線」アエロフロートに飛び乗った。底冷えのするモスクワに到着したのは、2001311日の夜のことである。 

 目の前には、白髪の大柄な老人が座っている。ディナモ・スタジアムに併設されたカフェの一角。私は「レジェンド・マン(伝説の男)」と対面していた。 

 ウラジミール・グレゴリーヴィッチ・サヴドゥニン。1924510日生まれの76歳。サヴドゥニン氏は、ふたつの意味で「レジェンド・マン」である。

 まず、1945年のディナモの英国遠征に参加した、24人のメンバーのひとりであったこと。そして、数少ない生存者のひとりであることだ。男性の平均寿命が61歳というこの国の状況を考慮すれば、76歳のサヴドゥニン氏はかなりの高齢である。英国遠征当時の写真を見ると、なかなかの好青年だった氏も、目元に往時の面影を宿すものの、真っ白になった髪と顔中に深く刻まれた皺は、年齢以上の老いを感じさせる。時の流れとは、残酷なものだ。しかし、さすがに元・フットボーラーだけあって、背筋はピンと伸び、言葉にも力強さが感じられる。 

「日本人である貴方が、ディナモの英国遠征に関心があると聞いて、驚いています。ところで、ウオッカでもいかがですかな?」 

 どうやらウオッカがないと、口が滑らかにならない人らしい。遠慮なくいただくことにしよう。私の隣では、通訳のナディアが両者の会話をつないでくれている。彼女の向かいに控えているのは、ジャーナリストのウラジミール・フィリッポフ氏。イングランド代表のロゴ入り帽子を小粋に被ったワロージャ(ウラジミールの愛称)は、ディナモの歴史に詳しく、英語も理解する。今回は、サヴドゥニン氏の回想をサポートする役を買って出てくれた。 

「ご存知でしょうが、私は当時のメンバーでは最年少で、すでに偉大な先輩たちがたくさんいたから、実際には英国でプレーしていないんです。それでも参考になりますかな?」 

 それは先刻承知だ。彼がプレーヤーとして活躍するのは、1950年代以降のことで、当時21歳の最年少だったサヴドゥニン氏は、残念ながら1試合も出番がなかった。英国遠征のメンバーで現在も存命しているのは、彼を含めてわずかに4人。そのうちふたりは健康状態がすぐれず、もうひとりは「極端なマスコミ嫌い」ということで、結局、取材に応じてくれたのは控え選手だったサヴドゥニン氏のみであった。それでも、56年前のディナモのメンバーへのインタヴューが実現したことに、私は興奮を隠し切れなかった。

 もっとも氏は高齢のため、さすがに当時の記憶にはあやふやな部分も少なくなかった。ワロージャのフォローがなければ、随分とちぐはぐな取材になったことだろう。 

「レジェンド・マン」へのインタヴューは1時間ほど続いたが、ここではワロージャの言葉を付加しながら、特に印象に残った証言のみを再現する。 

──私がディナモに入団したのは、1944年の8月だ。それまでは軍の諜報部員として、最前線を飛び回っていた。スターリングラード(現・ヴォルゴグラード)、キエフ、キシニョフ。その間、手を負傷してね。一時はフットボールを諦めたこともあったよ。 

 英国遠征のメンバーのうち、実際にドイツとの大祖国戦争に従軍したのは、私だけだった。まだ選手としてのキャリアが浅かったし、当時ディナモとは別のクラブに所属していたからね。 

 ディナモのメンバーは、戦争中はタシケントやアルマアタ(現・アルマトイ)に疎開して、そこでトレーニングを受けていたそうだ。フットボーラーだけでなく、国家から認められたスポーツ選手や芸術家たちも、中央アジアに集められていたので、戦禍を逃れることができた。 

 これはあとから聞いた話だが、スターリンはある時から大祖国戦争の勝利を確信するようになると、優れたスポーツ選手を保護するように命じたようだ。戦後、スポーツの分野において「ソヴィエト社会主義がいかに優れているか」を世界に示すために、非凡な才能を温存しておく必要があったのだろう。 

 スターリンがスポーツ好きだったかって? さあ、聞いたことがないな。いずれにせよ、戦争が終わって間もない194511月という時期に、ディナモがソ連最強のコマンドー(チーム)を結成して、英国に送り込むことができたのは、そういう理由があったからだ。 

──ディナモを英国に派遣することを決定したのは、スターリンと内務省のベリヤ、そして数人の将軍たちだった。英国から正式な遠征の打診があったとき、党指導部は、たとえ相手が「フットボールの母国」であっても、敗れて恥をかくことを極端に恐れていた。だが、1945年に再開されたリーグ戦を視察した彼らは、選手たちのレヴェルの高さに自信を深め、英国からのオファーを受け入れることを決意した。 

 問題は、どのチームを送り込むか。その年に優勝したのはディナモだったが、CDKA (現・CSKA)を派遣しては、という案もあったようだ。あそこも優れた選手を多数温存していたし、45年のシーズンではディナモと最後までリーグ優勝を争っていたからね。 

 やがて政治局員のマレンコフが主催したクレムリンの会議に、ディナモの監督に就任したばかりのヤクーシンが呼ばれた。ベリヤも同席していたはずだ。(当時、ソ連はFIFAに加盟していなかったため)ヤクーシンは国外のチーム、とりわけ英国のクラブと対戦することを熱望していた。だが「我々は祖国の名誉を懸けて闘う」と宣誓したものの、勝敗については巧みに言及を避けた。彼自身、英国のプロのクラブに勝利できるという確信はなかったようだ。 

──結局、ディナモとCDKA、どちらを派遣するかという決定は遠征直前まで下されず、両チームはそれぞれ準備を開始することになった。私たちは遠征までのおよそひと月、ディナモ・スタジアムで合宿を張り、ハードな練習メニューをこなした。だが、苦しいとは思わなかったね。英国がどんな国でどんなフットボールが行われているか、全く知らなかったが、とにかく遠征が楽しみで仕方がなかったよ。何しろ当時は、ソ連国民が外国に出られるチャンスなど、ほとんど考えられない時代だったからね。

 ディナモの遠征が決まり、自分もそのメンバーに選ばれたことを知ったときは、本当に嬉しかった。天にも昇るような気分だったよ。ヤクーシンは、私たち若手に経験を積ませることを第一に考えていたようだ。実際、ゲームに出られなかったことについては、それほど残念だったとは思っていない。ディナモが英国のクラブを相手に勝ち越したことは、何にも代え難い喜びだったからね。チェルシーとの試合後、ロンドンの街を散策していると、控え選手だった私にも英国人たちはサインを求めてきた。あのときは本当に有頂天だったよ。

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