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【無料公開】ブラジル人元Jリーガーが大集合! 僕らが日本サッカーに感じること<1/2>

ビスマルク「ヴェルディはいい意味で僕を裏切ってくれた」

ビスマルク パレイラ監督に最後に呼ばれた時のブラジル代表は、今から考えても錚々たるメンバーだったよね。ライー、ドゥンガ、マウロ・シルバ、エジムンド、リバウドもいたかな。僕はベンチで出番なし。ようやく僕も現実を直視するようになった。ヨーロッパへの話も立ち消えになったので、日本に行くふんぎりがついたよ。

 日本で僕を迎えてくれたのはヴェルディ川崎だった。ヴェルディはいい意味で僕を裏切ってくれたね。トレーニングセンターの設備も、クラブの対応も、いずれも素晴らしかった。ただしJリーグの試合を見ると、予想以上にスピーディーだったのは戸惑ったね。僕はテクニック面では自信はあったけれど、そんなにスピードがあるタイプではなかった。

 ただ、ヴェルディのコーチ陣からは「ウチは君の技術を評価しているから、自分らしさを出してくれ」と言われたのはありがたかった。そればかりか、期限付き移籍だった僕を、完全移籍で獲得してくれた。もしヨーロッパに行っていたら、日本でのような充実したプレーをできていたかは疑わしい。カレカも言っていたけれど、僕にとっても日本での日々は何ものにも代えがたいものとなったね。

サンパイオ 次はワシントンに話を聞こう。君は今、ブラジル市民省のスポーツ特別部部長の要職にあるわけだけど、日本での経験や学びが、今の仕事にどうフィードバックされているのか教えてほしい。

ワシントン ビスマルクが語っていたように、日本でサッカーをすることは僕にとっても非常に刺激的なチャンスだった。もちろんブラジルに残るという選択肢もあったし、そうすればセレソンに入ることもできたかもしれない。実際、クルピ監督が指揮していたアトレチコ・パラナエンセでは得点王にもなったしね。ただ僕は、心臓の病気というリスクがあった。そんな時にオファーをしてくれたのがヴェルディだった。

 僕は日本に行く以前にも、トルコのフェネルバフチェで1シーズンプレーしたことがあった。けれども日本では、本当に気持ちよくプレーすることができたね。金銭面での条件が良かったこともあるけど、食べ物も美味しかったし、クラブもブラジル人選手の対応に慣れていたのも大きかった。日本のサッカーにすぐに順応できて、最初のシーズンで22ゴールを挙げることができた。

 残念ながらヴェルディは2部に降格してしまったけれど、次に僕に魅力的なオファーをしてくれたのが浦和レッズだった。レッズも僕によくしてくれたし、その期待に応えるべく得点王にもなった。トーナメント大会(天皇杯)で優勝できたのもいい思い出だね。浦和ではあらゆる栄光を勝ち取ることができた。

 僕が選手としても人間としても成長できたのは、日本の文化や習慣から多くのものを学んだことが大きかったと思う。特に、日本人特有の規律や整理整頓といったものは、自分のサッカー人生にもいい影響を与えたね。今はブラジル市民省で仕事をしているけれど、それはスポーツを通して特に貧困家庭の子供たちにチャンスを与えたいからなんだ。僕自身、スポーツのおかげで豊かな暮らしをしているから、それをきちんと還元したい。

 僕だけでなく、家族も日本が大好きだ。娘たちも日本でいろいろ学びがあったし、妻とも東京五輪の時には日本に行ってみようと話をしている。いずれにしても、プレーの場を日本に求めたことは、僕にとって大正解。それはセレソンに選ばれて、ワールドカップに出場することよりも、僕にとって重要な意味を持っていたんだよ。

サンパイオ 次は日本人を代表してヤスさんに語ってもらおう。今日ここにいる選手たちとは、現役時代にピッチ上で対戦したわけだけど、この場で再会できた感想は?

三浦 こういう素晴らしい場に参加できたことを、とてもうれしく思います。僕も監督を8年間やってきたので、指導者の大先輩であるレヴィーにはいろいろ聞きたいこともある。ビス(マルク)とはヴェルディや鹿島にいた時は対戦相手だったけれど、僕が神戸で現役を終えるシーズン(03年)には一緒に来てくれた。弟のカズとは、今でもいい関係を続けてくれている。

 ワシントンが来日したときは、僕はすでに現役ではなかったけれど、浦和のACL優勝に大きく貢献したことは強く印象に残っているね。それと隣りにいるサンパイオ。僕が高校を卒業してブラジルに渡り、サントスでサッカー留学していた時に、ちょうど彼がユースに所属していたんだよね。僕と同じボランチでプレーしていて、年下なのに絶対にかなわないと思うくらい上手かったことを覚えている。

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