日本中の注目を集めたカメルーンキャンプの後日談 「2002年の記憶をめぐる旅」番外篇<2/2>
先週に続いて、THE ANSWERにて連載中の「日韓W杯20年後のレガシー」にて寄稿した原稿と写真をもとに、フォトギャラリーとインタビュー記事をセットでお届けする。今週は<宮城・大分篇>ということで、大分県日田市にある鯛生(たいお)スポーツセンターに勤務する、津江みちさんのインタビューを掲載することにしたい。
大分での2002年の記憶といえば、カメルーン代表がキャンプを張った中津江村を思い出す方が多いだろう。しかし現在、自治体としての中津江村は存在しない。平成の大合併により、前津江村、上津江村、大山町、天瀬町とともに2005年5月に日田市に編入されたからだ。よって、ワールドカップで有名になった坂本休(やすむ)さんは、中津江村最後の村長でもあった。
その坂本さんも御年92歳。さすがに取材対応が難しいということで、代わって話を聞かせていただいたのが、当時20代の若手スタッフだった津江さんである。正直なところ、どんな話が聞けるのか、期待と不安が半々であった。ところが実際にインタビューを始めてみると、これまでに聞いたこともなかったエピソードが満載。終わってみれば、期待以上の内容であった。
われわれ取材者は、失敗しないことを考えながらインタビュー対象者を選びがちだ。予算や時間が限られているのだから、それは致し方ないことではある。が、いわゆる「鉄板」でないアプローチから掘り出し物が得られることも、実は意外と多い。今回の取材は、まさにその典型例。これまで流布されてきた、中津江村の「いい話」が、いい意味で裏切られる内容となっている。(取材日:2022年5月6日@日田市)
<目次>
*最初に中津江村を気に入ったのはジャマイカ代表だった?
*「そんなにファンだったら、一緒にカメルーンに帰ろうか」
*南アフリカで坂本さんが長谷部誠の両親から言われたこと
■最初に中津江村を気に入ったのはジャマイカ代表だった?
──今日はよろしくお願いします。カメルーン代表がキャンプを張った2002年、すでに津江さんは鯛生スポーツセンターに勤務されていたそうですが、当時は何年目だったんでしょうか?
津江 私は1998年に入社したので4年目ですね。生まれも育ちも中津江村で、大学時代に一度離れましたが、こちらに戻って就職しました。入ってすぐに、当時の所長から「ワールドカップの公認キャンプ地として立候補する」という話を聞いた時は、何のことやらという気持ちでしたね。
──最初から「カメルーン一択」だったんでしょうか?
津江 最初はジャマイカが下見に来ていて「出場が決まったら、ぜひここでトレーニングをしたい」と言っていただいたんですが、予選敗退となってしまったんですよね。そうしたら今度は、カメルーン代表の(ヴィンフリート・)シェーファー監督が視察に来て「ぜひ、ここで」と。前回のフランス大会のキャンプ地と、環境が似ているというのが決め手になったそうです。
──正式に決まったのはいつ頃ですか?
津江 キャンプ候補地として正式に申請したのが1999年9月30日、カメルーンと中津江村が正式調印したのが2001年11月29日です。
──つまり12月1日の組み合わせ抽選会の前、ということですよね。カメルーンが韓国の組に入ってしまう可能性もあったのに、早々に調印されたわけですか?
津江 そこはどうなんでしょうね。ただ、中津江村は事前キャンプだったので、韓国の組に入ったらすぐにそっちに移ることを考えていたのかもしれません。結果的に日本の組に入ったので、その後は富士吉田でもキャンプをすることになります。もっとも、あとで触れるように中津江村への到着が遅れたので、富士吉田キャンプの日程もずれ込むことになりましたが。
──中津江村が事前キャンプだった話って、あんまり知られていないですよね?
津江 そうなんですよ。何しろ2002年の新語・流行語対象にも選ばれましたから(笑)。けれども実は、事前キャンプだったんですよね。
──それにしてなぜ、人口1300人ほどの村に、これほどのスポーツ施設ができたのでしょうか?
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