「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

【OB探訪】栃木SCのスーパーお爺ちゃん、上野佳昭さんのクラブ在籍9年8カ月の回想記。

上野佳昭(うえの・よしあき)1940年3月26日、栃木県さくら市(旧:喜連川町)生まれ。古河電工で川淵三郎らとプレー。日本代表候補に選出されたことがある。1978年に栃木国体の出場する成年男子の指導をするため故郷に。その後古河に戻ったが、2007年1月、栃木SCの強化部長に就任。プロ化を進め、Jリーグ昇格後のクラブではGMやシニアアドバイザーなどを歴任。今年8月末に退職した。

上野佳昭(うえの・よしあき)1940年3月26日、栃木県さくら市(旧:喜連川町)生まれ。古河電工で川淵三郎らとプレー。日本代表候補に選出されたことがある。1978年に栃木国体に出場する成年男子の指導をするため故郷に。その後古河に戻ったが、2007年1月、栃木SCの強化部長に就任。プロ化を進め、Jリーグ昇格後の栃木SCではGMや強化部長、シニアアドバイザーなどを歴任。今年8月末に退職した。

アマチュアからプロ化、激動期の2007年に

 

8月末日、上野佳昭さんが栃木SCを退社した。

今やバスケ界の救世主といっていい川淵三郎氏を「ぶっちゃん」と呼べる数少ない人物。御年75歳。川淵氏は古河電工の先輩にあたる。

 

栃木SCでは、GM、強化部長、シニアアドバイザー、そのほかにも営業などクラブ業務の様々をフットワーク軽くこなした。ホームゲーム前のチラシ配りでもよく顔を出していた。クラブ在籍中は無報酬のボランティアだったという。

どこから沸くんだ、と驚かされるパワーは、川淵三郎、松本育夫、あの年代の人たちに共通して感じるものだが、その源泉は未だによくわからない。

ただ、上野さんがクラブ内で何でもこなすスーパーお爺ちゃんだということは、多くのサポーターも知っていた。

 

だからなのか昨年の暮れ、J3降格が決まって急きょ開催されたサポーターカンファレンスで前強化部長の湯田一弘氏が土壇場で雲隠れし、水沼富美男社長(当時)とともに矢面に立たされたとき、このクラブへの貢献や気苦労を思ってか、誰も強化責任者であるはずの上野GM(当時)を責めることはなかった。

 

だが、上野さんは責任を感じていたという。

自分はチームを降格させたGMには違いない――。昨年の暮れにクラブに辞意を伝えたものの、降格でバタつくクラブの諸事情もあり、シニアアドバイザーとして過ごしたあと、8月末日というタイミングで退社となった。クラブに9年8カ月在籍した。

 

「今日は何の取材をするの? サッカーの話? 鈴木さんとサッカーの話、とことんしてみたいなあ」

 

上野さんには取材の目的を伝えていなかった。正直にいえば、会って、長年クラブに尽力された、その労をねぎらいたい、それだけだった。

 

ただ、会う以上は少しはライターらしい仕事をしないといけないなあと思い、せっかくだから昔話を掘り返して、クラブのターニングポイントの真相を懐かしんでみようと思った。

 

場所は、道の駅きつれがわ近くの創作料理屋。どうせなら、上野さんの地元がいいと思って場所を指定した。

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