「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

【無料記事】【SPRIDE22本誌】栃木SC 久富良輔 雑草魂のルーツ。

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久富良輔(ひさどみ・りょうすけ)1991年3月19日、神奈川県出身。177cm、69kg。愛称は「ドミ」。右サイドで攻守にフル回転するDF。昨季のJ3で年間7アシストを記録。湯河原サッカースポーツ少年団-湯河原中-桐陽高-産業能率大-ザスパ草津チャレンジャーズ-ザスパクサツ群馬-藤枝MYFC-栃木SC(2018~)

 

「かなり状況が厳しくても、自分ならばこの状況から這い上がっていける、という自信がある」

 

高校までは弱小校で過ごす

 

 神奈川県の温泉街である湯河原に生まれた久富良輔は、小学時代に齋藤学(川崎フロンターレ)や端戸仁(湘南ベルマーレ)といった同年齢の選手たちと同様、神奈川県選抜に選ばれることはあったが、エリート街道らしい道を歩んだのはこの時期だけだった。

 中学は地元の湯河原中学へ進学。全国のどこにでもあるような中学の部活動でサッカーに励むなか、プロサッカー選手になりたい、という漠然とした思いだけは持っていたが、現実はそう甘くはなかった。

「小学や中学のときのメンバーはよかったけれど、中学に進学すると全然試合に勝てなくなったんです。中3の最後の大会でも早々に負けてしまったときは本当にショックでした。プロにはなりたいと思っていたけど、それで自信を失ってしまって……。今思えば、この頃の自分はプロになろうとする意志が弱かった。本当に強い意志があれば、強豪校へ進学していたと思います。でもどこかで逃げて、レベルの高くない環境を選んでいた」

 自信を失いかけていた久富が選んだのは、静岡県の桐陽高校だった。サッカー部は強豪ではなかったが、監督の名前が目に留まった。鈴木伸幸――。川口能活(元日本代表)らが在籍したときの清水商業高校を率いて全国制覇を成し遂げた人物である。久富は、サッカー部のレベルが高くなくとも、監督が日本一のレベルを知っているならば、自分もその環境でうまくなれるだろう、と考えた。

 実際、その目論見は吉と出る。

「監督自身がまだ若かったので、自分のプレーで見せるんですけど、めちゃくちゃうまいんです。衝撃を受けました。チーム自体のレベルは高くはなかったので、1年生のときからレギュラーで起用してもらえたんです」

 とはいえ、桐陽高校は、レベルの高い静岡県では県大会に出場することもままならなかった。静岡では冬の高校サッカー選手権は一次リーグと二次リーグを経たうえで、決勝トーナメントが開催されるが、桐陽高校は毎年ほぼ一次リーグ敗退。清水商業や藤枝東など県内の強豪校とは練習試合でも相手にしてもらえなかった。

 そんな環境を選んだツケが回ってきていた。しかし、久富はプロになることを諦められなかった。高校の3年間はとにかく個人のレベルアップに主眼を置こうと割り切った。

「強くない高校を選んでしまったんですが、プロになることを諦め切れなかった。だから、この環境でやれるだけのことはやろうと」

 全体練習後に一人で黙々とボールを蹴った。朝練がなかったが、午後のチーム練習だけでは足りないと朝早くおきて、学校が始まる前に5キロほど走った。当時スピードには自信があったが、不安だったスタミナをつけてプロでも通用する土台を作ったのはこの時期だ。監督の鈴木の存在も救いだった。かつて日本一になった目線から日本のトップクラスの選手たちの練習内容や日々の姿勢などを話してもらい、久富は負けまいと自分を奮い立たせた。

 大学サッカーは産業能率大学を選んだ。

「当時は有名な大学ではなかったですけど、有名なところがいいとは思わなかった。先輩に有名大学サッカー部に進んだ人がいるんですが、特待生で加入しないかぎり相手にされない、と。産業能率大はこれからのチーム。監督同士が知り合いだったこともあり、練習を見にいって決めました」

 産業能率大学時代は好成績を残せたわけではない。チームが目指した関東リーグへの昇格も果たせなかった。久富自身にもプロへの誘いはかからなかった。だが、もう迷いはなかった。

 

チャレンジャーズでの転機

 

 決断したのは、プロになるための最後の賭けとなる、ザスパ草津チャレンジャーズ(以下、チャレンジャーズ)への加入である。チャレンジャーズとは、文字通り、トップチームのザスパクサツ群馬のプロ選手になることを目指して切磋琢磨する群馬のセカンドチーム。選手全員が温泉街草津の旅館を寮代わりに住み込み、サッカーと仕事を両立させながら夢を目指す、アマチュア選手の集団である。

「調べるとプロになっている人が稀にいたんです。のちに藤枝MYFCでともにプレーする枝本雄一郎さんがちょうどトップチームに昇格すると聞いて、チャンスがあるかなと」

 しかし、それは本当にわずかなチャンスだった。久富自身もよくわかっていた。

「大学を卒業して、働きながらサッカーをするのだから、覚悟をもってやらないと中途半端にだらだらと続けてしまうのは避けたかった。だから、強く心に決めたんです。絶対にチャレンジャーズには1年しかいない、と。この1年間は貪欲だったし、ギラギラしていました。何を失ってもいいから絶対にプロになりたい。それまでの自分が、プロになりたいという気持ちがいかに足りなかったのか実感しました。強い覚悟できた1年でした」

 当時のチャレンジャーズは群馬県リーグの3部に所属していた。とうの昔に第一線を退いたおじさんたちが趣味でサッカーに興じるような環境である。普段の生活は群馬の山奥だった。時期によっては雪の激しさが身に沁みた。が、その反面、プロを目指す若者たちに対して草津の町の人たちの眼差しは温かく、理解があった。

 久富はそれを良しとしなかった。

「何のためにここにいるのかを考えないといけない。同じ考えを持った選手とは『この1年が勝負だぞ』とずっと話をしていました。確かに居やすくて、温かい。でも、これで良しではない。それは加入する前から思っていましたが、加入してから改めて思いました」

 

(久富良輔選手の約5千字のドキュメントの続きは、ぜひ現在発売中のSPRIDE22(6月号)でお楽しみください。県内の大型書店で購入可能です)

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