府トレセンで南野拓実、興国高校で古橋亨梧と交わる、激戦区大阪出身Jリーガーのサッカー人生。【Jリーガーの履歴書 Vol.6 和田達也編】(20.5.24)
新連載、Jリーガーの履歴書。プロになった選手たちのプロ入りまでの歩みを振り返ります。Vol.6は和田達也選手をピックアップ。
▼小学生のときは途中までスイーパー役
――今日は昔の話を遡って聞きたいのですが、大阪でサッカーを始めたのは何歳ですか?
「サッカーを始めたのは幼稚園の年長ですね。全然覚えていないんですけれど、多分、お姉ちゃんの友達とか、近所のお兄ちゃんがサッカーをやっていたから、という話は親から聞きました。近所にスポーツクラブがあって、そこでサッカーがあったので入ったという感じですね」
――小学生のときは長野フットボールクラブに在籍しています。
「町クラブですね。小学校1年生からそこに入りました」
――どこにでもあるような町クラブですか?
「そうです、そうです」
――指導者もお父さんコーチとか?
「指導者はいました。サッカー経験者の方々で、小中一貫のクラブチームですね」
――その頃から「俺はプロになるぞ」と言っているような子でしたか?
「どうですかねえ……。小1から学年ごとにチームがあるくらい、人数もそれなりにいるチームだったんです。市の大会だったらだいたい僕らが毎回優勝している感じで。大阪には百以上のチームがあると思いますけれど、大阪で3位になったことがあります。その頃から本格的にプロになりたいなとは思っていましたね」
――大阪はチームが多いから激戦区ですよね。“全少”とかに出るのも大変ですよね。
「僕らが3位になったときも準決勝でセレッソ大阪のジュニアに負けて3位になったんです。やっぱり強かった」
――チームメイトで将来プロになるような人はいました?
「いや、いないです。キーパーをしていた子は、小学生や中学生の年代のときに代表に呼ばれる子がいて、ナショナルトレセンに入っていましたね。でも彼くらいで、フィールドでずば抜けている選手はいませんでした」
――でも、自宅から近いところに、そういう強いチームがあったんですね。
「僕が言うのもあれですけれど、僕らの年代から関西大会などに出場し始めたんです。それで続々と後輩たちが入ってきて、その中には森下怜哉(現松本山雅)もいましたね」
――森下怜哉選手も長野フットボールクラブですか。
「小学校は違うと思いますが、中学生のときは一緒ですね」
――そうすると、森下怜哉選手とは地元が近い?
「近いですね。もう横の中学校なので近いですね」
――長野フットボールクラブで和田選手はエースでした?
「いや、全然エースではないです(笑)。僕の記憶にあるのは、小学校3、4年生ぐらい……低学年のときはセンターバックなどをやっていて、当時はまだスイーパーというポジションがあって(最終ラインの後ろに1枚余って構えるお掃除役)、自分はスイーパーをやることが多かったんです。で、5年生とか6年生のときにサイドハーフになって、そこで仕掛けるドリブラーというスタイルでしたね」
――背番号は10番?
「小学校のときの背番号は入団した順番でしたから、僕は12番でしたね」
――12番?
「めちゃくちゃ嫌やったんですよ(笑)」
――12番はちょっとね。
「本当に当時は嫌でしたね。Jリーグを見てもサポーターの番号だったし、12番のプロ選手って、なかなかいないじゃないですか? 嫌やった思い出がありますね」
――同じ番号の選手に憧れたりしますからね。
「そうなんですよ……」
――当時、憧れていたプロ選手はいましたか?
「2002年のワールドカップは僕が小学校2年生くらいのときなので、その当時だと、稲本潤一選手とか中村俊輔選手とか、そういう選手をずっと見ていました。あとは、僕たちの長野フットボールクラブのスタッフに初芝橋本高校出身の方がいて、吉原宏太さん(ガンバや札幌で活躍)と仲が良かったんです。小学生のチームの初蹴りなどのイベントのときに結構来てくれて、当時はガンバでまだバリバリやっていた頃だったので、僕はすごく好きでしたね」
――サイズはないけれど、スピードがあってキレがあって。
「スタイル的に大好きな選手でしたね」
▼府トレでは南野拓実と一緒にプレー
――ジュニアユースまで長野フットボールクラブで過ごし、高校は大阪の興国高校ですね。入学した理由は?
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