【サッカー人気2位】今季初取材の今治に「J3らしさ」を見い…

「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

アンダー日本代表常連のエリートがぶち当たった壁。「苦しくても『絶対に負けねえ』と反発する気持ちは広島ユース時代に培われていると思います」【Jリーガーの履歴書 Vol.7 大﨑淳矢編】(20.5.26)

新連載、Jリーガーの履歴書。プロになった選手たちのプロ入りまでの歩みを振り返ります。Vol.7は大﨑淳矢選手をピックアップ。

 

▼富山の強豪チームでプレーできたのは母のおかげ!?

 

――今日は昔の話を聞かせてください。大﨑選手のウィキペディア情報を見ていると、出身は富山、富山北FCでサッカーを始めたのは小3ということですが。

 

「一応、幼稚園からやっていましたが、小学校に上がるタイミングではスポーツ少年団には入っていなくて、サッカーは何もやっていなかったんです。それで2、3年生のときにスポーツ少年団に入って、そこからですね」

 

――お兄さんはバスケをやっていますよね。その頃から道は違っていたんですか?

 

「兄も最初はサッカーをやっていました。(僕は)その影響ですね」

 

――最初から凄かったみたいですね(笑)。

 

「ハハハ(笑)。どうなんですかね。経歴だけ見ると凄いですよね(笑)」

 

――だって全少(全日本少年サッカー大会、ジュニア年代最高峰の大会)で決勝まで行っていますよね。決勝の相手は江南南サッカー少年団。原口元気選手がいたときですか?

 

「そうですね」

 

――この富山北FCというのはクラブチームですか?

 

「クラブチームですが、セレクションなどは全くないチームですね」

 

――家から近いところにあった?

 

「たまたま近くにあって、力を入れ始めている段階のチームでした。僕の当時入っていたスポーツ少年団と富山北FCが対戦して、そのときにけちょんけちょんにやられてしまったんです。それで母が『この子はこのままじゃダメだ』と思ったらしくて、無理矢理スポーツ少年団を辞めさせられて、そこに入れさせられました(笑)」

 

――お母さん、すごい判断力!

 

「あの当時、母はかなりいい働きをしていたなと」

 

――お母さんには我が子にスポーツで大成してもらいたい思いがあったんですか?

 

「当時は、僕よりもむしろ母の方がありましたね。『お試しでいいから富山北FCに入ってみて、これはもうお願い!』みたいな感じでお願いされて。だから、最初はお試しで入ってすぐに辞める予定だったんです。やっぱりスポーツ少年団の方が友達も多いから、新しい環境はあまり望まないタイプだったんで、『じゃあお試しの体験が終わったらすぐに辞めるからね』と言っていたんですけれど、富山北に行ったら行ったで楽しくて、ずっとやることになったんです」

 

――やはりお母さんいい仕事しました。それで学年が上がっていくと、だんだんとチームの中心になっていったんですね。10番はつけていました?

 

「5年生くらいからずっと10番でしたね」

 

――もう中心選手ですね。

 

「当時、僕の所属している富山北にU-12日本代表の選手がいたんですよ」

 

――森泰次郎選手?(カターレ富山などでプレー)

 

「森以外にもいたんですよ。森とか、うまい選手が一杯いたので、めちゃめちゃ刺激はありましたね」

 

――当時の富山県でそういうレベルの高い選手たちが集まっていた。

 

「だから小学校のときは県大会とかも無敵でしたね。大勝ばかりで10-0とか20-0とか、もう県大会の予選なんかはそんな感じです。決勝トーナメントに行っても絶対に3点から4点差はつくような感じでした」

 

――将来プロになるレベルの選手が3人もいたら無敵ですよね。

 

「そうですね(笑)」

 

――全少も決勝では江南南と対戦しています。江南南は伝統的に強いチームですけれど、決勝戦は再延長まで行ったとか。

 

「再延長まで行って、結局やられてしまいました」

 

――相手の原口元気選手は目立っていました?

 

「彼はちょっと頭一つ抜けていたというか、やっぱりその当時から違うなと。周りとは全く違うモノを彼は持っていましたね」

 

――そういう環境で小学生時代を過ごして、大﨑選手も絶対にプロになるんだという少年だった。

 

「間違いなくそういう感じですね」

 

――将来のビジョンもありました?

 

「ありました。その考え方も『プロになるんだ』ではなくて『プロになれるものだ』と思っていたんです」

 

――それはすごい。

 

「プロになってから、その先はどうしようかな、と言う感じでした。どこのチームに入ろうかな、という感じでしたね」

 

――そういう考え方になったのは環境ですか?

 

「当時の監督やコーチの持っていき方というか、メンタルトレーニングではないですけれど、将来自分がどういうふうになりたいのか、という目標設定をした紙とかも書かせられていたんです。だから、自然とそういう考え方になっていったんだと思いますね」

 

――当時の監督さんは、元プロとかですか?

 

「たまにコーチで来てくれた人が、富山第一で監督をやっている大塚さんという方で、イングランドなどにしょっちゅう行っていました。元古河電工だったかな? Jリーグができる前の時代にサッカーをやっていた方で、それこそ元プロ選手に知り合いがいて、そういうところから自然と刺激を受けましたね」

 

――だから、やっているトレーニングとか考え方も視野を広げられたと。

 

「そうですね。あと、チームメイトの親父に柳沢敦さん(鹿島などでプレー)を教えていた人がいるんです。そういう話も聞いていたので、当時はめちゃめちゃ刺激がありましたね」

 

――柳沢さんも富山ですもんね。なかなかそういう環境はないですよね。地方のチームでね。

 

「そうですね、今でこそカターレ富山とかありますけれど、当時はプロもありませんでしたから、プロに会うことも僕らの時代にはありませんでしたから、めちゃめちゃ貴重でしたね」

 

――もしかすると最初に入ったチームにずっといたら、今の大﨑選手はないかもしれない。

 

「それは間違いないですね、だから母に感謝なんです」

 

▼U-13から代表に選出されるエリート街道まっしぐら

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