「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

どん底だった田代雅也を支えた言葉。「過去は変えられないが、未来はいくらでも変えられる」【Jリーガーの履歴書 Vol.8 田代雅也編】(20.5.28)

新連載、Jリーガーの履歴書。プロになった選手たちのプロ入りまでの歩みを振り返ります。Vol.8は田代雅也選手をピックアップ。今回はプロ入り後のターニングポイントに焦点を当てています。

(撮影は永島一顕)

▼田代雅也を支えた大木武の言葉

 

17年3月、FC岐阜を契約解除になったとき、田代雅也を支えた言葉がある。

「過去は変えられないが、未来はいくらでも変えられる」

自身が犯した過ちによる代償に向き合い、田代は少しずつ歩みを進めながらチャンスを待った。

あれから栃木に加入するまでの1年という時間について、改めて振り返ってもらった。

 

自分が岐阜で過ちを犯してしまったあと、当時の岐阜の監督だった大木さん(武、現熊本監督)から「やってしまったものはしょうがない」と言ってもらったことを覚えています。僕はあのとき、岐阜のメンバーを前にしながら「すみませんでした」と頭を下げてグラウンドを後にしました。それが岐阜での最後でした。

岐阜を出てくる前に、お世話になった方がご飯に連れて行ってくれて、大木さんが言っていたという話を聞かせてもらったんです。

「過去は変えられないけど、ここからどうなるかはあいつ次第。未来はいくらでも変えられるんだ」

自分でやってしまった過ちだから自分に跳ね返ってくるのは仕方ないのですが、僕はそのとき、精神的に本当に弱っている状態だったので、その言葉に助けられたし、今でも僕の中にずっと残っているんです。確かに過去は変えられない。でも、自分次第でこれ以上悪くなることは避けられるんじゃないか――。そう思って前を向こうとしていました。

それから埼玉の実家に帰って、両親に会いましたが、特に母親が悲しい顔をしていたことは僕の中にすごく残っています。もう頭を下げて謝るしかなかったですね。

それからすぐに動き出していました。まだサッカーを続けたいという思いがあったので、どうにかしようという気持ちが強かった。岐阜のときのチームメイトの知り合いが東京にいて、相談に乗ってくれるということだったので紹介してもらったんです。実際に会うと、僕がやってしまったことをすべて聞いてくれて、それでも親身になって一緒に考えてくれました。

それからは平日の日中にサッカーのために集まってる社会人の方々と一緒にボールを蹴ったりする時間を過ごしました。土日も体を動かすために11人同士のフルコートの練習試合があれば、すかさず駆けつけて試合に出させてもらっていました。社会人のチームの場合、人数が足りなくなることが頻繁にあると聞いていたので、そういうチームを2,3チームほど掛け持ちをしながら、話が来たときにはすかさず顔を出してサッカーをやる環境に確保していたんです。だから、家に引きこもってるような時間は全然なかったですね。そういう場を提供してくださった皆さんには今でも感謝しかありません。

もちろん、バイトをしなければいけなかったので同時並行でやっていました。主に肉体労働ですね。小学校を建て替えるときの内装工事の現場とか。そこで荷物を運ぶとか、脚立を運んだり立てたりとか、そういうことしかできないので、とにかくバイトでも身体を動かそうと思ってやっていました。

岐阜をクビになってから栃木に加入が決まるまでの1年ほどの間、基本的にそういう生活をしていました。だから、当時一緒にサッカーをやっていた人たちには今でもシーズンオフに顔を出して一緒にボールを蹴ったりするんです。この前のオフはみんなが「残留できてよかったねー」などと言ってくれて。僕からすれば、あのときに一緒にサッカーをやってくれた人たちのおかげで、最後にああいうゴールが生まれたと思っているので、彼らのために形として結果を残せたことは本当に良かったと思っているんです。

もちろん、岐阜の人たちから許してもらえるかどうかは自分では分からないし、許すとか、許さないとかは僕が決めることではありません。僕ができることはひたすらプレーしている姿を見てもらうことだけです。だからこそ、何かを感じてもらえるプレーを常にやり続けなければいけないという思いが僕の中にずっとあります。

▼タイでのチャレンジの末に

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