「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

栃木の闘将に多大なる影響を与えた日本サッカーの育将、今西和男との出会い。【Jリーガーの履歴書 Vol.5 菅和範編(アディショナルタイム編)】(20.6.4)

新連載、Jリーガーの履歴書。プロになった選手たちのプロ入りまでの歩みを振り返ります。Vol.5は菅和範選手をピックアップ。前編、後編に続き、プロ入り後のFC岐阜時代を中心に、アディショナルタイム編としてお伝えします。

 

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徳は孤ならず 日本サッカーの育将 今西和男

 

▼日本サッカーの育将と称される今西和男との出会い

――Jリーガーの履歴書、前回は、高知大学から岐阜に加入するまでを話してもらいました。ただ、菅選手にとって岐阜時代の当時のGM、今西和男さんとの出会いは大きいと思うんです。

「今西さんとのエピソードは印象深いことや学びが多すぎて、何を挙げればいいか迷うほど勉強させてもらいました。一番に残っているのは『人として当たり前にやるべきことを当たり前にやる』 、この言葉は僕のなかで本当に大きいです。コミュニケーション能力について今西さんに口酸っぱく言われたし、そういう選手向けの講習もあったほどでした。『人の話を聞くときはその人に興味を持って、その人の立場になって話を聞きなさい』『子供と話すときはしゃがんで話を聞きなさい』。僕自身、昔からそういう教えは受けてきたつもりでしたが、自分が大事だと思っていたことを改めて今西さんに言語化して伝えてもらったんだと思いますね」

――岐阜ではそういう教えから始まったわけですね。

「そうですね。岐阜に加入したのは2008年でしたが、当時、新人選手たちは毎週毎週ホームゲームがある前には名鉄岐阜駅まで行って、サポーターさんと一緒にビラ配りをしていたんです。プロ1年目の自分たちのことを知ってもらう必要があるので、という今西さんの教育の一環でもありました。最初はビラをもらってもらえませんでしたね。でもやり続けていると『頑張ってね』と言ってもらえる機会が増えていったし、イベントなんかにもたくさん参加しながら、すごく濃い1年間を過ごしたという感覚があります」

――ビラをもらってもらえないと心が折れますよね

「しっかり相手の顔を見ながら渡さないといけないないし、『僕たちはFC岐阜の選手です! 今週末のホームゲームよろしくお願いします!』とはっきりと言って渡さないとダメだな、とか本当に色々と勉強になりましたね。全然関係ない人にビラを受け取ってもらうというのは本当に大変なんですよ。栃木も数年前にクラブが債務超過になって苦しい時期があったじゃないですか。あの時も選手たちで募金をしたりしましたが、岐阜時代以来だったので懐かしいなあと。まったく照れもなくできたのは岐阜時代の経験があったからですね」

 

▼一軒家のような選手寮での共同生活

――岐阜では1年目から開幕スタメンの座を手にします。

「プロ1年目の開幕戦にスタメンで出るというのは試合の3日前くらいに言われたんですよ。それまでプレシーズンの練習試合でもスタメンはなかったし、キャンプのときからずっとサブメンバーでした。でも開幕する2日ほど前に『開幕戦はスタメンでいくぞ』と言われて驚きました。当時の監督もおそらく僕を緊張させたくなかったとか、色々と理由はあったと思いますが、後から聞いた話では、当時のコーチが『あいつで行きましょう』と言ってくれたらしいんです。それで当時の監督、松永英機さんですが、英機さんが決断してくれて、 本当に幸せなことに大卒ルーキーが開幕戦からスタメンで出してもらえたんです。それをきっかけに1年目はかなり成長させてもらえたと思います」

――GMの今西さんとは定期的に会話をしていたんですか?

「岐阜に在籍していたときはしょっちゅう話をしていました。あとは、地域の方々がいろいろサポートしてくれていて、岐阜市長の奥さんにもすごくお世話になったんです。皆さんが協力してくれて、プロ1年目ということで選手寮を用意してくれたり、定期的に食事会を開いてくれたり、そういう場所に今西さんも来てくれていたので、本当に色々な話をした記憶がありますね。その時の繋がりで今でも当時の岐阜市長の奥さんとは毎年、僕が岐阜に帰ったときには会っているし、 その当時僕のことを親身になって支えてくれた方々とは今でも交流があります。僕にとってプロ1年目は本当に大事な時期だったんですよね」

――確か、選手寮がなかなかすごい環境だったんですよね。

「5人のシェアハウスみたいな選手寮で、一人はリビングに住んでいましたね(笑)。一軒家といえば一軒家なのですが、入り口があって、階段を上っていくと部屋が二つあって、キッチンとお風呂、その上に3階があって3部屋、合計で5部屋。大学時代はずっと一人暮らしていたので、岐阜に入って寮生活になったときには、ここから抜け出してやるぞ、という気持ちはすごくありましたね(笑)。ただ、一方で良いところもあって。建物の入り口には事務所があって、そこにはサポーターとかチームの後援会の人たちが集まって会議をしているような場所だったんです。 僕らが帰ってくるとみんながいて『これ食べな』ともらったりとかしながらの毎日でみんなが温かかった。そういう環境がありがたくもあったんです」

――岐阜時代を振り返ったとき、ターニングポイントはありますか?

「プロ2年目のときに大卒2年目だった自分がキャプテンをやらせてもらったことはすごく経験として大きいです。当時の監督は英機さんでしたが、 シーズン当初に監督に呼ばれて、『キャプテンをやらないとか』と言ってもらえたんです。えっ? という感じだったんですけど、僕が『何をしたらいいですか?』と聞くと『お前は今のままでいい。今のまま何も変える必要はないから』と言ってくれて『ならば頑張ります』と答えたのを覚えています。この年、岐阜は大卒新人を11人ぐらい獲得しているんです。その加入会見のときにGMの今西さんが『今回の新人選手たちは菅和範を基準に獲得した』と言ってくれて。それまでの1年間は試合に出させてもらいながらもしんどくて苦しい時もあったので、頑張ってきて良かったなあと思いました。その時に岐阜に入ってきた新人選手たちが永芳卓磨とか西川優大とか佐藤洸一で、彼らのためにもキャプテンとして改めて覚悟が決まったという感じでしたね。キャプテンとしてスポンサーパーティーなどで挨拶をするのも最初は難しいのですが、場慣れするし、そんな経験が自分を高めていってくれた感覚はあります」

撮影は永島一顕

 

▼選手に「移籍しなさい」と言ってくれるGM

――岐阜でキャプテンを務めて、そこから12年に栃木に移籍するときの話は以前お聞きしましたが、当時の今西さんとのエピソードを改めてお願いできますか?

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