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「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

明本考浩、森俊貴らのベースを作った熱血指導、そしてこれからの青写真。「攻撃は佐藤悠介、守備は佐藤祥。2人を融合させたボランチを作り上げたいと思っています」/栃木SC 花輪浩之アカデミーダイレクター【インタビュー連載②/全3回】(20.11.27)

▼全身で飛び跳ねるような子ども

花輪浩之アカデミーダイレクターが栃木SCの育成部入りをするのは2003年のこと。大学卒業後に地元の宇都宮市に戻り、母校の小学校で子どもたちの指導を始めた。地域トレセンの指導に参加すると「栃木SCでやってみないか?」と声をかけられたことがきっかけだった。

2002年に立ち上がった栃木SCアカデミーのほぼ初期メンバーである。

 

花輪浩之(はなわ・ひろゆき) 1976年8月14日、栃木県宇都宮市生まれ。大学卒業後に地元栃木に戻り、ジュニアの指導をスタート。2003年、育成部門を立ち上げたばかりの栃木SCに加入し、子どもたちの指導に当たる。後にプロになる中美慶哉(現松本山雅)、黒﨑隼人、明本考浩、森俊貴らを指導。”花輪さん坊主事件”が象徴する熱血指導はアカデミー年代から走って闘える選手たちを続々と輩出する源泉になっている。現在はアカデミーダイレクター兼U-13コーチ。主にジュニアユース年代の指導に熱を注ぐ。/写真は栃木SC提供

 

「僕が最初に監督をやったのはジュニアユースでした。そのときの選手には中美慶哉(松本山雅)がいました。最初にジュニアのコーチ、その次にジュニアユースの監督、ユースの監督をやって、またジュニアに戻ったタイミングで明本と森がいたんです」

 

――彼らを見て感じるものはありましたか?

 

花輪 明本については、決してうまくはありませんが、常に動き回りながら「俺がやるからついてこい!」みたいな感じでした。小学生のときは小さかったのですが、全身で飛び跳ねるような子どもでしたね。サッカー小僧で、負けず嫌いで、手を抜くことは一切ない。こういう子どもに技術や判断力をつければプロになるんだろうなと。

逆に、森はその当時、県内で知らない人がいないほどの有名人。体も大きく、フィジカルで何でもやれてしまうし、どの試合でも点を取れる子でした。戦う、走る、声を出す、そういったサッカーの本質の部分のレベルは2人とも本当にすごかったと思います。

 

――この10年間を見たときにそのクラスの選手は?

 

花輪 僕が関わった中では今のユースの3年生に清村陽空という選手がいるのですが、彼も明本に似たタイプではあるものの、当時の明本の方がハードワークをしていたかなと。

 

「今後、明本たちに続く選手を毎年輩出します」栃木SCアカデミーのDNAとは何か?/栃木SC只木章広育成部長【インタビュー連載①/全3回】

 

 

▼花輪さん坊主事件

――花輪さんが彼らを指導するなかで大事にしてきたもの何でしょう?

 

花輪 シンプルですが、勝負にこだわること。練習で対人をやるときも、勝つためにやる、そのために走る、スライディングをする。グラウンドが土だろうが関係ありません。「勝つためにはやらないといけないよね?」と強調していました。

 

――明本選手たちが証言しているのですが、彼らが中学3年生のときのある試合で大敗したときの花輪さんの熱血漢ぶりを証明するエピソードがあります。大敗したあと、突如坊主にしたそうですね。

 

花輪 はい、しましたね(笑)。みんなもするかな? と思ったら、誰一人としてやらなかったので、ちょっとショックだったんですけれど(笑)。明本たちが中学3年生のときのクラブユース選手権関東予選で横浜FC06で負けた試合があるんです。その年の横浜FCは本当に強かったのですが、それにしても何もできなかった。それが6月の出来事。じゃあ夏合宿などで気合いを入れて練習して見返してやろう! 俺たちは絶対にやれるんだ! という気合いを込めて、古臭い考え方かもしれませんが、僕が坊主になったんです。みんなも反応するのかと思ったら、誰も何もしなかったですね(笑)。

 

――明本選手たちは「大敗した翌日、グラウンドに全然知らないコーチがいた」「よく見たら花輪さんだった」と振り返っています。花輪さんは「お前たちのことはもう指導しない」とそっぽを向いたそうですね。

 

花輪 そんなこともありました(笑)。明本は当時ジュニアユースのキャプテンでしたが、まだ子どもですから、気持ちを込めて100%の状態で365日を過ごすことはなかなか難しい時期だったと思います。思春期だし、彼女ができることもあっただろうし、精神面で色々と影響を受ける時期だと思います。「そういうものをグラウンドに持ち込まないように」という話は何度もしていましたが、その中で横浜FCに大敗する出来事が起きてしまったと。子どもたちも自信をなくしていたので、競争をさせるための荒療治として、当時、県のリーグ戦では絶対的なエースだった明本をスタメンから外したり、Bチームに落としたりしたことがあるんです。あの当時は明本もすごく不貞腐れていましたね。それでも面と向かって話をしたら理解してくれて、悔しい思いをピッチでちゃんと表現してくれた。そういう経験を踏まえて、彼らが成長してくれたのは大きかった。逆に森にはそういうことをしづらかったという思いはありました。森はレギュラーを外したりBチームに落としたりすると本当にそのまま落ちていってしまうところがあったので、その代わり、僕は何かあればめちゃくちゃ怒っていましたけれどね。今でこそ森はあれだけ動くことができますが、どちらかというと、当時はやりたいことしかやらないタイプだったし、フィジカル的な優位性があったので、それで押し切れていたんですね。

 

――明本選手や森選手にアカデミー時代の思い出を聞くと揃って「花輪さん坊主事件」を挙げます。ただ、「あのときの出来事があったから僕らは強くなれた」とも言っています。それが中学3年生のときの高円宮杯で強豪ひしめく関東予選を突破し、全国大会へと繋がるきっかけになったんですよね。

 

花輪 そうですね。横浜FC06で大敗したあとの夏でした。高円宮杯で関東予選を突破して全国大会に出場したことがあります。そのときのチームも、今のトップチームや、当時のトップチームの「走って、闘う」スタイルをそのまま体現したようなチームでした。僕たちは当時、まだ県リーグに所属していたのですが、高円宮杯の関東予選で強豪の横浜F・マリノスや三菱養和にも勝ち切って全国に行くことができたんです。全国大会の1回戦の相手が九州地区のチャンピオンの大分トリニータ。その大分にも勝ったのですが、2回戦で、その夏にクラブユース選手権で全国準優勝を果たすヴィッセル神戸に1-2で負けました。

当時、中学生は40分ハーフの80分のゲームでした。全国大会の12回戦は2日連続の連戦だったのですが、中学生の明本たちはガンガン走って、プレッシングの網を張って、ショートカウンターからどんどんゴールを奪い取るようなサッカーで対抗したのですが、2日連続で80分のゲームを戦うのはさすがに無理なんですね。敗れた神戸戦も後半20分までは勝っていましたが、残りの時間にはもうみんなの足がピタッと止まって動けなくなってしまった。あのときの光景を思うと、子どもたちに申し訳ない、というのは今でも思います。結局、ボールを握りながら相手を動かして体力を消耗させるようなサッカーを僕が教えることができなかったからなんです。

今のトップチームはそういうサッカーをしてもいいと思いますが、育成年代では、色々なサッカーを伝えてあげなければいけないと思っています。状況をしっかり判断する力を身につける時期だし、戦術眼という頭の部分と、それを実行するスキルやテクニックを磨く必要があると思います。当時、明本や森がいた2012年、僕は彼らにもう少し上の景色を見させてあげたいという思いはありながら、僕の指導力不足のせいであの敗退に追い込んでしまったという後悔がありました。

そういうタイミングで栃木SCのアカデミーにJFA(日本サッカー協会)から山口隆文さんが来てくれたんです。育成年代の指導について、そこで僕も新たな視点を持ち、指導者として変化することができたタイミングでした。

 

――山口さんはJFAで指導者資格S級のインストラクターをされていた方ですよね。当時、そんな方が栃木SCのアカデミーにやって来られたので僕もびっくりした記憶があります。

 

花輪 山口さんが栃木に来られて、僕自身、色々と変わることができた時期でした。サッカーの本質の部分、勝負にこだわる部分というのは、当時から変わらず僕の中にありますが、サッカーは相手を見て判断をするものなので、そのために必要なスキルや戦術眼を当時の明本や森らに教えてあげられたら、もう少しうまくなっていたのかもしれない。そういう反省があるから、今の子どもたちにはその点もしっかり指導できているという言い方もできるんです。

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