「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

あれから10年。震災直後の栃木SC 【Column】(21.3.11)

東日本大震災から10年。犠牲になられた方々に心から哀悼の意を表します。

以下の原稿は2011年3月11日に発生した東日本大震災直後、某媒体に寄稿した原稿です。あのときの栃木SCについて、備忘録として再掲載します。

10年前も、今も、10年後も、20年後も、30年後も。いつ何時も希望はサッカーとともに。

 

■栃木も練習場、スタジアムが一部損壊

東北から関東まで広域を襲った巨大地震から4日が経過した3月15日。僕は自宅での作業を中断し、チームが練習する都賀に向かっていた。宇都宮市にあるチームのメイン練習場・栃木SCフィールドは巨大地震により一部損壊、練習場の使用中止を余儀なくされた。ホーム・グリーンスタジアムもコンコースに損壊が見つかった。 宇都宮から都賀までは車で30分ほどかかる。ある選手は「ガソリンがなくて今後練習にいけなくなるかもしれない」と漏らした。その日、自宅から幹線道路に出ると、ほどなくしてガソリンスタンド渋滞が始まった。栃木は震災後まもなく深刻なガソリン不足に見舞われていた。

3月11日14時46分、宮城県沖合を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が東日本を襲った。このとき、チームは羽田空港に向かうバスの車中だった。全員が無事だった。翌日はアウェーでサガン鳥栖とのJ2第2節が予定されていたのだ。

震度6強を記録した宇都宮の東部地域はライフラインが途絶えた。携帯は通話もメールも繋がらない。頼れるのはツイッターなどのSNSだけだった。そのタイムラインが非常事態を叫んでいた。地震発生から数時間後、チームは羽田空港で足止めされていることがわかった。夜、ロウソク一本の灯火の中、何とか拾ったNHKのユーストリームの映像で、仙台の街が無抵抗に大津波に飲み込まれる様に節句した。

チームは羽田空港で一晩を過ごしていた。翌日、選手たちは大渋滞の中をバスで9時間もかけて疲れた様子で宇都宮に戻ってきた。巨大地震から3日。チームは14日から練習を再開した。その間も、テレビは巨大津波がもたらした東北地域の惨状を垂れ流し続けた。さらに福島原発が放射能漏れを引き起こす緊急事態に陥った。テレビとPCで情報を収集し続け、一息もつけない緊迫感から逃れられない毎日。ツイッターのタイムラインたちと共に希望を叫ぼうとも、慢性的な重苦しさから逃れることは難しかった。僕は息継ぎをすべく、練習場のある都賀に車を走らせていたのかもしれない。

■今、新たな希望を信じている

その日、練習場に到着したのは12時半過ぎだった。非常時ではあったが、練習場の周りにはサポーターやファンの車が十数台あり、すでに数人が練習の様子を覗っていた。彼らもまた僕と同じ気持ちだったのかもしれない。11時開始の練習は、もう残り時間がわずかだった。渋滞に巻き込まれ、たった十数分間練習を覗くだけになってしまった。だが、それで十分だった。

選手たちはまるでサッカー小僧のようにミニゲームに興じていた。みんなが声を張り上げ、笑い声が絶えず、サッカーを精一杯楽しんでいた。巨大な被害や悲痛な叫びとはまるで対極の世界。それは、サッカーのある日常だった。都賀の練習場は辺り一面が畑といった牧歌的な風景が広がり、余計に対比的にその想いを強くさせたのかもしれない。パウリーニョのシュートが鴨志田の身体に触れてコースが変わりゴールが決まると、パウリーニョは仲間にハイタッチで祝福され、鴨志田は仲間に揉みくちゃにされた。トリポジが決定機を外すと仲間たちから「レオーン!」と冗談とも叱咤ともとれる檄が飛んだ。しかし最後の最後に仲間がゴールを決めるとトリポジも輪の中に迎えられ、みんなで肩を組んで勝利を喜び合った。チームの雰囲気は最高に良かった。みんなに活力が漲っていた。それは、今はもう昔のことのように思える3月6日、開幕戦で草津を粉砕したときの雰囲気そのものだった。全体練習が終わると、競い合うようにシュート練習をする若手選手たちがいた。グラウンドの外周を黙々と走る大久保裕樹がいた。そのすべてが3月11日以前と何も変わらなかった。その様子を眺めながら小さく深呼吸をすると、思いがけず涙腺が緩んでしまった。安堵したのだろうと思う。そこで初めて、それまで気を張っていた自分に気づいた。

3月中のJリーグは中止となり、栃木のチーム活動も今月24日までオフとなった。今、全国各地でチャリティーの動きがある。3月18日、栃木SCも支援義援金の募金活動を始めた。同日、地元ラジオ局主催の栃木救済プロジェクトに栃木の選手たち4人が参加した。即日フォトレポートがクラブのHPに掲載されたが、選手たちの変わらない笑顔に安堵したサポーターやファンは少なくなかったと思う。

巨大地震はサッカーを愛する私たちから、サッカーをプレーする、後押しする自由を奪った。だが、今なお希望は何ひとつ失われてはいない。今、こうして余震が頻発する非日常に身を置いていることが、むしろ、サッカーのある日常への愛情をより深めやしないかと、僕はあの都賀での体験から思いを強くしている。それは新たな希望だ。だから、信じている。間もなくJリーグが再開し、全国各地のスタジアムが歓喜と熱気に包まれることを。ベガルタ仙台が一日も早い再生を果たし、再び仙台に活気と笑顔をもたらすことを。今回被災した多くの地域でサッカーが復興の力となることを。サッカーは、絶対に負けないのだと。

(了)

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