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「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

【無料再掲載】【OB探訪】栃木SCのスーパーお爺ちゃん、上野佳昭さんのクラブ在籍9年8カ月の回想記。(21.4.14)

4月13日、栃木SCに長く御尽力された上野佳昭さんが永眠されました。心よりご冥福をお祈りいたします。

当サイトでは16年10月に上野さんのインタビューを掲載させていただきました。栃木SCに様々ご尽力された功績の一部ではございますが、広く皆さんに知っていただきたく、ここに再掲載させていただきます。

 

上野佳昭(うえの・よしあき)1940年3月26日、栃木県さくら市(旧:喜連川町)生まれ。古河電工で川淵三郎らとプレー。日本代表候補に選出されたことがある。1978年に栃木国体の出場する成年男子の指導をするため故郷に。その後古河に戻ったが、2007年1月、栃木SCの強化部長に就任。プロ化を進め、Jリーグ昇格後のクラブではGMやシニアアドバイザーなどを歴任。今年8月末に退職した。

上野佳昭(うえの・よしあき)1940年3月26日、栃木県さくら市(旧:喜連川町)生まれ。古河電工で川淵三郎らとプレー。日本代表候補に選出されたことがある。1978年に栃木国体に出場する成年男子の指導をするため故郷に。その後古河に戻ったが、2007年1月、栃木SCの強化部長に就任。プロ化を進め、Jリーグ昇格後の栃木SCではGMや強化部長、シニアアドバイザーなどを歴任。2016年8月末に退職した。

 

アマチュアからプロ化、激動期の2007年に

 

(2016年の)8月末日、上野佳昭さんが栃木SCを退社した。

今やバスケ界の救世主といっていい川淵三郎氏を「ぶっちゃん」と呼べる数少ない人物。御年75歳(2016年当時)。川淵氏は古河電工時代の先輩にあたる。

 

栃木SCでは、GM、強化部長、シニアアドバイザー、そのほかにも営業などクラブ業務の様々をフットワーク軽くこなした。ホームゲーム前のチラシ配りでもよく顔を出していた。クラブ在籍中は無報酬のボランティアだったという。

どこから沸くんだ、と驚かされるパワーは、川淵三郎、松本育夫、あの年代の人たちに共通して感じるものだが、その源泉は未だによくわからない。

ただ、上野さんがクラブ内で何でもこなすスーパーお爺ちゃんだということは、多くのサポーターも知っていた。

 

だからなのか2015年の暮れ、J3降格が決まって急きょ開催されたサポーターカンファレンスで前強化部長の湯田一弘氏が土壇場で雲隠れし、水沼富美男社長(当時)とともに矢面に立たされたとき、このクラブへの貢献や気苦労を思ってか、誰も強化責任者であるはずの上野GM(当時)を責めることはなかった。

 

だが、上野さんは責任を感じていたという。

自分はチームを降格させたGMには違いない――。昨年の暮れにクラブに辞意を伝えたものの、降格でバタつくクラブの諸事情もあり、シニアアドバイザーとして過ごしたあと、(2016年)8月末日というタイミングで退社となった。クラブに9年8カ月在籍した。

 

「今日は何の取材をするの? サッカーの話? 鈴木さんとサッカーの話、とことんしてみたいなあ」

 

上野さんには取材の目的を伝えていなかった。正直にいえば、会って、長年クラブに尽力された、その労をねぎらいたい、それだけだった。

 

ただ、会う以上は少しはライターらしい仕事をしないといけないなあと思い、せっかくだから昔話を掘り返して、クラブのターニングポイントの真相を懐かしんでみようと思った。

 

場所は、道の駅きつれがわ近くの創作料理屋。どうせなら、上野さんの地元がいいと思って場所を指定した。

 

「いつものね」

 

上野さんがそう注文したときに、おお、その感じ、と心のなかで小躍りし、「じゃあ、ぼくもそれ」と言って二人でどっかと腰を下ろし、それからインタビューは始まった。

 

534月1日付けで宇都宮に来たの。それまでは古河電工で営業の仕事をしていたんだけどね、栃木で国体が開催されるからって、その準備でね。成年の部の監督をやれって言われたんだよ」

「宇高は全国高校サッカー選手権大会で優勝しているんだよ。知っている? 昭和27年ね」

 

いきなり半世紀も昔の話にぶっ飛んだので面食らったが、上野さんが楽しげに昔話に花を咲かせていたので、しばらくじっくりと耳を傾けた。

 

栃木SCに関わるようになるのは、2007年1月からである。当時の栃木SC20066月にクラブが法人化し、2007年シーズンから本格的にJリーグ昇格を狙ったシーズンを戦おうという激動期だった。

 

「JFLのときに力を尽くされていた石崎先生(現栃木県サッカー協会会長)と山野井先生から『手伝ってよ』と声がかかってね。それで強化部長としてクラブに入ったんですよ」

 

周知のとおり、当時の栃木SCはアマチュア選手たちが活躍していたが、いざ勝負の2007年シーズンが開幕すると、序盤戦からなかなか結果がついてこずに6月下旬に当時の高橋高監督が責任を負って辞任することになる。

 

「当時の主将の只木は高校の先生、チャンスメーカーの高秀は市役所の職員。昼間に試合があるのに、夜だけ集まって練習していても勝てないだろうと、監督の高橋には散々伝えていたんですよ。で、ある日、只木(現栃木SC育成部長)と大喧嘩をした。それはみんな知っています。だから今回辞めるとき、只木には『いろいろあったな』と、最後はね」

 

栃木SCがアマチュアからプロ化する激動期である。

今だから言えることとして次いでに書いておこう。高橋高監督が辞任したあと、栃木SCには後にチームをJ2昇格に導く柱谷幸一監督が20077月から就任するが、このとき強化部長だった上野さんは、柱谷氏にオファーを出した事実を事前に知らされていなかった。

 

「社長がね、もう話はしてある、っていうんです。強化部長の俺の立場は? という話じゃないですか。こっちだって監督候補はいろいろ用意ができる。顔の広さだったら負けないよ。いまでも負けない。それは自信がある」

 

当時の社長というのは、新井賢太郎氏である。あの人がいなければ栃木SCJリーグ入りを果たせなかったんじゃないか、と言われるワンマン、剛腕社長。冒頭の川淵三郎、松本育夫らと同世代であり、老いてなお底抜けのパワーを秘める、こちらもスーパーお爺ちゃんである。

 

「大宮で柱谷が待っているっていうから、それで電車に乗っていったんだけど、一緒にいったスタッフとは大宮まで何も口を聞かなかった」

 

強引というか、豪快というか、新井賢太郎社長(当時)は、シーズンのホーム開幕戦をど派手に飾るため、グリスタ上空にヘリコプターを飛ばして、怖いくらい(というか、みんな「あれ、落ちるんじゃね?」と真剣に怖がっていた)の演出で盛り上げようとするような豪快な人物、一緒に強化部長として仕事をしていた上野さんもさぞ大変だったんだろうとは思う。

 

ただ、上野さんにも新井氏同様、あの時代を生きた人間の豪快かつ強引な一面はあった。

2009年から栃木SCの監督に就任する松田浩氏獲得の裏話を紹介しよう。

 

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