「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

【無料再掲載】【OB探訪】栃木SCのスーパーお爺ちゃん、上野佳昭さんのクラブ在籍9年8カ月の回想記。(21.4.14)

松田浩との交渉で強調した「442」への拘り

 

2008年暮れ、J2昇格を果たしたチームは、指揮官の柱谷氏とクラブの年俸交渉の折り合いが付かず、柱谷氏が監督続投を涙ながらに断念した。

このとき、上野さんは何人かの新監督候補のなかから、松田浩を選んだ。一方、松田は当時J1ヴィッセル神戸の指揮官として活躍していたが、シーズン中に来季の契約延長を打診されながら、シーズン終盤に話を反故されて、一転クビに。失意のどん底にいた。

 

「知り合いから連絡先を教えてもらって、直接、松田の携帯に連絡したんです。面識はなかった。私は栃木SCというクラブの強化部長をやっているものだと連絡して、キミのことを監督として考えていると伝えたら、驚いてたね。俺ですか? って。向こうだって、精神的に参っている時期だっただろうし。それで『明日会えないか?』 と伝えて、翌日、神戸で会ったんですよ」

 

新神戸駅で二人で昼食を済ませたあと、喫茶店に移動。そこで粘りに粘った。時間にして5時間超。

 

「クラブの事情、グラウンド環境、持っている選手たちのクオリティ、こういうときは、ありとあらゆることをすべて包み隠さずに話すのが鉄則なんですよ」

 

一つ、拘っていたことがあった。栃木でどういうサッカーをしてほしいか。それを明確に伝えることだった。

 

「システムは442。みんなでハードワークをしつつ、ただパスを回すんじゃなくて、たとえばゴールに向かって点で合わせるような速いサッカーをしてほしい。栃木としてはそういうサッカーがしたいんだが、キミならばそれができる」

 

明確に442でチームを作ってほしいとお願いしたのだ。「442」で「速く」というフレーズは傷心中の松田浩の心のスイッチを強力に押したんじゃないだろうか、と僕は思う。栃木のクラブ事情、金銭事情など気になる点はいろいろあろうと、自分がやりたいサッカーをドンピシャでやってほしいと言われるほど、指導者として心強いことはない。

 

「クラブとしては監督が変わっても、このシステムでやってくれ、という提示をすべきなんですよ。俺はそもそも古河電工で4バックだったから、その考えはもともと持っていたんだけど、あるとき、鈴木満、鹿島アントラーズの強化部長、あれは俺の後輩なんだけど、やつの話を聞いて自分の考えは間違っていないと確信した。鹿島はブラジルから監督を連れてくるでしょう? そのときに必ず『クラブのシステムは442。それで今はこういう選手がいて、今はこの選手を物色している』、そんな話を必ずするというんですよ。アントラーズの歴代のチームはみんな442でしょう? それがベースなんだよね。相手によって少し変えるなどすればいいんだから」

 

栃木SCに流れる442の伝統というのは、上野さんの存在も大きかったのだろう。松田浩、松本育夫、阪倉裕二、倉田安治、横山雄次、と繋いできた指揮官リレーだが、なんだかんで全員4バックを色濃く採用している。

 

今季当初は3バックを採用した横山雄次監督も「選手たちがやりやすそう」という理由で3節から4バックにシフトした。

クラブが4バックを貫いていれば、4バックおよび442をベースにプレーすることを“やりやすい”と感じる選手は自然と集まるし、クラブも集めることになる。それがチームの持つDNAとなり、秘伝のタレを付けたしするように受け継がれていく。まさに鹿島がそれを成功させている好例である。

その意味で、栃木SCの伝統的な堅守や、堅守速攻の継続性は十分に説明できると思うし、逆に言えば、DNAを入れ替えるのは容易ではなく、栃木がポゼッションで優雅に、とはすぐにはならない。

 

さて、話は上野さんと松田浩との交渉の席に戻る。

初対面だという二人の交渉はおよそ5時間超。

 

「来てくんねえか?」

 

上野さんは切り出したという。監督へのオファーをしてから決断までの時間の平均がどれくらいかはわからないが、上野さん自身が「即日というのは聞いたことがない」というのだから、松田浩もさぞ面食らっただろう。

 

「まだ、妻にも話をしていないので……」

 

と松田浩。当然である。

 

「じゃあ、電話してよ」

 

スーパーお爺ちゃん、一歩も引かず。松田浩が困惑したように、席を離れる。

 

「それから30分、いや、1時間くらい電話で奥さんと話しをしていたかなあ。戻ってきた松田が、まだ決められない、待ってください、っていうから、わかった、待っているよ、と伝えてその日は帰ったんです」

 

ちなみに、上野さんは交渉がうまくいくと確信していたという。

実は、松田浩に会いにいく道中、上野さんは宇都宮駅で競輪プロの神山雄一郎にばったり遭遇。

「おお、神山君か」「はい」「今日は?」「立川の練習場に行くんです」「そうか、頑張れよ」「ありがとうございます」

ちなみに面識はなかった。そんな会話をしたあと、東海道新幹線のグリーン車の車中で、今度は上野さんと同世代の大物演歌歌手の大月みやこに遭遇。大ファンだった上野さんはマネージャーを通じて強引に「サインくれんか?」とねだったというが、このとき、上野さんは二人に会ったことで、こんなことは滅多にない、と交渉が成功に終わると確信したという。

 

「神の山から大きな月が出た。今日はいけるぞ。そう思ったよね

 

そして、それは冗談話に終わらず、現実に実るわけだった。神戸で初めて交渉をした翌日の午前中、上野さんから松田浩に連絡を入れると「引き受けさせてください」と快諾の声が返ってきた。

 

「よっしゃ! と。松田が引き受けたぞ、と言ってもクラブのスタッフたちは、嘘でしょ? と信じない。あれは嬉しかったなあ」

 

8月末で退職も「未練がないといえば嘘になる」

 

そんな話をしている上野さんの右手首には、栃木SCのロゴマークの入ったブレスレッドが。8月末に退職したとはいえ、やはり栃木SCに未練があるんじゃないだろうか。

 

「未練? いやいや、これはね、俺、心臓をやっているから、薬を携帯するためにここに挟んであるのよ」

 

と言ってブレスレッドのなかからカプセルを取り出す上野さん。ニトログリセリンという狭心症用の薬らしい。

とはいえ、しばらくしてから、こう漏らしていた。

 

「まあね、未練はないといえば嘘になる。長い間、ずっとやってきたしね」

 

インタビューを敢行したのは、チームが(2016年シーズンの)23G大阪U-23戦で完敗したあとで、次節にアウェーのFC琉球戦が控えていた。正念場の一戦を迎えるチームの状況を誰よりも案じていたが、上野さんは優勝の行方について話が及ぶと、胸をぽんと叩くようにして「最後はここだけだよね」と言った。

 

「昔ね、俺が監督をやっていたときに、試合前日に先輩面した人間がグラウンドにやってきて『お前らこんな練習やってちゃダメだ』と言ってくるようなことがあって、その度に頭に来ていたんです。ずっと現場を見ている人間にしかわからないことがある。昔自分がやられて嫌だったから、俺も今そういうことはやらないんだ」

 

上野さんはチームがJ2に復帰できることを心の底から願っている。

 

クラブを離れた今は、古巣の古河電工から仕事が来たり、膨大に持っていた栃木SCの仕事をクラブスタッフに引継ぎをしたり、先日の25節福島ユナイテッド戦はこれまでと同様にグリスタに顔を出したり、変わらず多忙である。

取材中も上野さんの携帯には、栃木県のサッカー関係者と思われる人物から数回にわたって連絡が入ってきて、

「なんていう人?」「ポジションは?」「わかった、いいよ」

そんな会話が取り交わされていた。今までどおり上野さんのサッカーの人脈を頼りにする人たちが無数にいる。上野さんはいつまでも現役バリバリという印象である。

 

インタビューを切り上げて、道の駅きつれがわの足湯を背景に一枚写真を撮らせてもらった。

ヒデ(赤井秀行)、そして新たに菅ちゃん、古波津、彼らは上野さんの推薦があって喜連川温泉PR大使に就任した。特にヒデは、上野さんが可愛がっていた選手だ。

ヒデは相模原に移籍したが、監督も変わって、なかなか大変そうである。

「だけど、プロなんだから、そこで勝負して試合に出ないといけない。ヒデも頑張んないと」

ヒデがもし現役を引退するときがきたら、クラブとして引き取る予定はあるのだろうか。体力勝負で、営業でバリバリ務まるものだろうか。

「営業は体力だけじゃできないんだよ。ここ(頭)を働かせないといけないからね。ヒデに務まるかなあ」

 

しばらく上野さんと並んで歩いたが、一日中部屋で仕事をしている僕なんかより、よほどフットワークが軽い。すたすたと軽快に歩きながら、上野さんは最後に「鈴木さん、今日はサッカー談義をするものだと思っていたよ。今度はみっちりサッカー談義をしよう」と言って去っていった。

このあとは矢板市役所で打ち合わせがあると言っていた。明日は小山市役所へ挨拶にいくのだという。

繰り返すが御年75歳(2016年当時)。くれぐれも身体にはお気をつけて、と言いたいところだが、パワフルである。

道の駅きつれがわの足湯前でパシャリ。当駅は今後リニューアルで整備される模様。上野さんは嬉しそうだった。

道の駅きつれがわの足湯の前でパシャリ。当駅は今後リニューアルで整備される模様。上野さんは嬉しそうだった。(2016年10月撮影)

 

この取材をさせてもらったのが4年と少し前のこと。その後、少し経ってから闘病が始まったと聞いたときは驚きました。一度快方に向かわれてからは、タイミングを見て栃木SCのグラウンドや試合会場を訪れて、田坂監督や選手たちを鼓舞する姿がありました。栃木SCのホームゲームの入場ゲートで上野さんに笑顔で出迎えられた栃木SCサポーターも少なくないはずです。いつ何時も栃木SCを支えようと全力を体現して下さった方でした。サッカーを愛し、栃木SCを愛した人でした。栃木SCがいま、こうしてJリーグで立派に渡り合えているのは上野さんの尽力があってこそです。その思いを引き継ぎ、今後さらにクラブを発展させることは我々に課された責務だと思います。

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