【無料公開】現役引退発表に寄せて/日々雑感−阿部勇樹『心からの感謝を』

 

 

 

愛すべき人

 今だから明かせること。素顔の阿部は話好きで愛嬌があって、何よりも快活な人物だった。2012年1月に当時イングランド・チャンピオンシップ(2部相当)に所属していたレスター・シティを退団して浦和レッズへカムバックする直前、偶然にもイングランドで取材をしていた筆者へ連絡があり、レスター市内で彼と会って長い時間話した。行きつけのイタリアンレストランへ連れて行ってもらうと、店主が両手を大きく広げて出迎えてくれた。レスターサポーターでもある店主が筆者に対して如何に阿部がサッカー選手として、人格者として素晴らしいかを滔々と説明する中、当の本人は恥ずかしそうに下を向いて、「ここはね、ドーバーソールのムニエルが美味しいんだよ」と呟いていた。その後、本人とは移籍関連の話を少しだけしたが、話の大半は、顔は思い浮かぶけども名前が思い出せない日本の女優の話題で、有名人の名前を当てる携帯アプリを活用しつつ、「ダメだ~、思い出せない…」と頭を抱えていたのをよく覚えている。

 レスター時代の阿部は間違いなくチームの中心選手で、当時はチャンピオンシップからプレミアリーグ昇格を目論む野心的なクラブで確固たる立場を築き上げ、実際に他のプレミアクラブからのオファーも受けていた中で浦和への帰還を決断した。阿部は古巣へ戻ることの意義と尊さに至上の喜びを感じていて、「浦和に帰れるのが待ち遠しいよ」と言っていた。その言葉は、後の彼の浦和レッズでのプロサッカー人生を振り返れば嘘偽りのないことが分かる。

 食事後の別れ際、レスターのクラブカラーでもある紺色のブルゾンを身に纏った彼が突然、「あっ! 思い出した!」と大きな声を上げた。何事かと思うと、「ずっと名前が出なかった女優の名前、思い出した! ●●さんだ!(誰もが知る有名女優さんですが、名前が思い浮かぶ前の阿部ちゃんの説明では誰のことだかさっぱり分かりませんでした※筆者談) 良かった~、思い出せて。今日は寝れないと思ってたもん」と言って破顔一笑すると、「じゃあ、次は浦和で!」と言って、スキップするようにその場を去っていった。深々と降り積もる粉雪の中に消えていくその後ろ姿は、清廉潔白な精神を宿す少年の面影が滲んでいた。阿部勇樹という人物の心根は当時も今も、何ら変わっていないように思う。

 引退会見での阿部は、今後の進路について明確にこう言い切った。

23年間サッカーをやらせていただいて、本当に多くの監督に教えていただき、選手としてサッカーをしてきました。なので、僕は今後、指導者の道へ行きたいと考えています。逆に行かなければ、今まで教えていただいた監督に失礼なのではないかと自分は思っているので、その道へ新たなチャレンジをしたいと思っています」

会見中に何度も涙を流して感慨に耽った阿部だが、今回の会見で最も彼の心が動かされたのは、サポーターの方が記してくれた、この言葉ではないか。

『あなたがいる浦和レッズの試合を観て、サッカーが好きになりました』

一瞬、言葉に詰まった彼は、「幸せだなと思いました」と話した後、こう言葉を紡いで、ポケットから取り出したハンカチで涙を拭った。

「今、『サッカーが好きになりました』という言葉を聞いて、サッカーをやってきて良かったと思います。本当に支えていただきましたし、本当に共に闘っていただきました。ありがとうございました」

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こちらこそ、全身全霊を賭して闘ってくれてありがとう。幾つもの素晴らしい思い出を綴ってくれてありがとう。皆のために泣いてくれてありがとう。

あなたの勇姿に、いつも励まされてきました。名前の通り、皆に勇気を与えてくれる存在でした。水さん(水上裕文氏/現 フットボール本部 強化担当課長)への思いを吐露するのも本当にあなたらしいです。

熱い心を宿す人。感情豊かな人。一途な人。気遣いができる人。慈愛に満ちた人。朗らかな人。真摯な人――

幾つ言葉を並べても言い尽くせません。胸が詰まります。今はただ、あなたが現役として戦う残りの5試合に思いを馳せています。

阿部勇樹はプロサッカー選手の鑑です。尊敬の念を込めて、心からの感謝を。

 島崎英純

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