ベトナムフットボールダイジェスト+

ロシア出身のベトナム代表守護神、月給200USDも経験した苦労人<1/2>

ベトナムで味わった苦い挫折

記者:当時からベトナム語が出来たのですか?あるいは、以前ベトナムに行ったことがあったのですか?

ラム:小さい頃、時々旅行で訪れていました。ロシアにいた頃から父は家でベトナム語を話していたので、言葉は分かりましたよ。母と僕はロシア語で会話していました。家族は二か国語分かります。僕はベトナムの語彙力が不足していたので、ベトナムに来てから読み書きも勉強しました。

記者:スパルタクとディナモの下部組織で育ち、188cmという身長もあったのだから、チームを探すのは難しくなかったでしょうね。

ラム:いくつか選択肢がありました。最初に訪れたハノイの某クラブの話ですが、更衣室はどこか聞いたとき、スタッフがドアの向こうを指さしました。ドアを開けると、そこはトイレでした。僕はトイレで着替えなければならず、他のみんなもそうしていました。そんなこと今まで経験したことがなかったので、ショックを受けました。練習は続けましたが、ここは自分に合わないと感じました。ハノイでは、1,2クラブで練習参加して、その後はサイゴン(ホーチミン市)に渡りました。チームを見つけたんですが、やはり同じような問題に直面し、最終的にたどり着いたのがホアン・アイン・ザライ(HAGL)でした。当時HAGLはアーセナルと提携関係にありました。広いグラウンドがあって、施設も充実していたので、そこと契約することに決めたんです。ここで僕の新しい物語が始まるんだと信じていました。18歳でトップチームと一緒に練習していました。

記者:しかし、思うようにはいかなかった?

ラム:最初のシーズンは練習参加だけで、出場機会はありませんでした。次のシーズンも同じです。U-19ベトナム代表には招集されましたが、クラブで定位置を掴むことは出来なかったんです。

記者:どこに問題があったのでしょうか?

ラム:精神的なことだと思います。ロシアとベトナムは文化と習慣が異なりますから。

記者:具体的に言うと?

ラム:まず第一に、当時の僕のベトナム語があまり上手くなかったこと。第二に、僕は一人のロシア人として、外国人然として振舞ってしまったこと。きっとみんな僕のことが気に入らなかったと思います。心の中で「なんだこのロシア野郎は?」と思ったことでしょう。監督が僕の名前を試合の出場選手リストに加えることはありませんでした。1年半が過ぎたころ、幸運にもタイ人のGKコーチがやってきて、状況が変わりました。彼は僕がどこから来たとか、何語で話すとかに無頓着でしたから。僕たちはとても良い信頼関係を築くことができて、コーチも僕がベトナム人GKにはない素質を持っていると評価してくれたんです。

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