ベトナムフットボールダイジェスト+

“ベトナムの女ベッカム”「最大の夢はワールドカップ出場。叶えられない夢じゃない」

東京オリンピック出場を目指すベトナム女子代表のエースであるグエン・ティ・トゥエット・ズンが地元紙の取材に応じて、自らのサッカー感や生い立ちなどについて語った。同選手は2018年のゴールデンボール(年間MVP)を受賞した、高いテクニックを持つミッドフィルダーで、両足から繰り出す精度の高いフリーキックとドリブル突破が武器。所属先の名門フォンフー・ハナムは赤がチームカラーで、背番号7を好んでつけることからファンの間では“ベトナムの女ベッカム”や“ベトナムの女ロナウド”などと呼ばれている。

-サッカーを始めたのはいつですか?

「幼少期です。5~6歳だったでしょうか。近所の男の子たちのグループに混じってボールを蹴っていました。女の子は私だけ。親に見つからないよう、こっそり遊びに行ってました。当時は、女の子がサッカーなんてするもんじゃないの!と母からよく叱られていました。私自身、どうしてそんなにサッカーが好きだったのか分かりません。女の子たちの遊びには参加しないのに、男の子たちがサッカーをしていると必ず参加していました。男の子とばかり遊んでいたせいか、よく叩き合ってました(笑)。周囲からはお転婆で、まるで男の子みたいだと言われてましたが、気にしませんでした。私は自分の好きなことに夢中だったので」

-サッカー好きの少女がプロ選手を志すきっかけになった出来事は何でしたか?

「フォンフー・ハナム下部組織のセレクションがあった時、近所の男の子たちが挑戦してみろ、と言ってくれたんです。父は最初から応援してくれて、母も私が幼い頃からサッカーに夢中だったので、最後には同意してくれました。セレクションの結果は合格。当時私は13歳でした。貧しい家庭だったので、チームに入れば、私にかかる生活費や学費の負担がなくなると考えました。私も好きなサッカーが出来ますし。当時からハナムは女子サッカーが人気で、親戚も応援してくれました。入団前日の夜には、大勢の人が家に集まりました。みんな貧しかったのに、去り際に心付けを置いていってくれました。とても感謝していて、今でもはっきり覚えています」

-8年生(日本で言う中学2年生)でフォンフー・ハナム下部組織に入団するのは大変ではありませんでしたか?

「初めのうちは家が恋しくて仕方ありませんでした。両親を思い出し泣いて眠れない夜が多かったです。まだ携帯電話も持っていませんでしたから、家族に電話をかけようと思ったら、200m程離れた郵便局までいかなければなりませんでした。それに、当時の自宅には固定電話がなかったので、まず近所の人に電話して両親に取り次いでもらっていました。また、当時はバイクも持っていなかったので、両親はセオム(バイクタクシー)に頼んで私をチームまで送り届けました。私を訪ねる時もセオムを利用していました。当時のフォンフー・ハナムの本拠地はズイティエン町ホアマック地方にありました。私の実家から23~25km程の距離です。お金がなかったので、友達と一緒に歩いて帰ることもありました。歩きながらヒッチハイクを試みて運が良ければ途中まで乗せてもらい、降りてからまた歩き続けました。そうやって家に帰るのが楽しくて、貧しかったですが、よい思い出になっています」

-幼い頃、最も辛かったことは何ですか?

「色々ありました。ハナム省は貧しい地域ですから、待遇面もよくはありませんし、クラブを維持していくだけでも大変です。廃棄されたタイヤを使ってタイヤ引きのトレーニングをしていました。苦しい環境でしたが、それを乗り越えることで人は強く成長します。その環境の中で先輩・後輩の関係も学びました。自然と先輩は後輩の面倒を見るようになっていくのです。チームの中でグループに分かれて掃除や料理を担当します。後輩が何か分からないことがあれば、先輩がお手本を見せなければなりません」

-苦しかった下部組織時代を振り返った感想は?

「入団以降もサッカーへの情熱は高まるばかりでした。トップチームには私のアイドルだったバン・ティ・タイン(元ベトナム代表)がいて、彼女が努力する姿を毎日見ていました。両親の存在も励みになりました。入団してから2010年までは、家族を助けることが出来ていませんでした。クラブで得られる報酬は微々たるもの。少しのお金と栄養摂取のための砂糖とミルク、数か月後には6万VNDの手当がもらえて、この金額は少しずつ上がっていきました。2011年に代表チームに呼ばれるようになって待遇面も次第に良くなり、家族に仕送りできるようになりました。当時の女子サッカー選手の給料は決して高くなかったですが、私にとっては大金で、家族を助けることが出来ました」

-代表初選出は18歳でした。どうやって代表チームに適応したのですか?

「初めて代表チームに呼ばれたときは驚きました。先輩たちと練習するので、とても神経を使って、もしミスしたら怒られるんじゃないかと、ビクビクしていました。そうやって自分で勝手にプレッシャーを感じていたんですが、実際には先輩たちは熱心にアドバイスをしてくれただけで、しばらくしたらチームに溶け込むことが出来ました。代表初招集のときの目標は、どうやって指導陣の信頼を得てチームに残るかということ。生き残りをかけた代表チーム内の競争は熾烈で、クラブでの練習よりも厳しいものでした」

-フォンフー・ハナムに入団して13年が過ぎましたが、これまでにサッカーを辞めたいと思ったことはありますか?

「うまくいかない時期はありますが、サッカーを辞めようと思ったことはありません。これまでに一番落ち込んだ時期は2012年です。膝の怪我で1か月以上も病院に通わなければなりませんでした。サッカーに限らず、全てのスポーツ選手にとって、怪我は悪夢以外の何ものでもありません。プロスポーツ選手にとって怪我はアスリート人生の分岐点になります。それを乗り越えられるかどうかは、その人の意志と努力次第です」

「その年、私は負傷しましたが、幸い大事には至りませんでした。それでもボール感覚は失われました。ピッチに戻れるまでは、日々ストレスとの闘いでした。もう嫌だ、そんな声が頭の中で響きましたが、そんなんじゃいけないとすぐにその声を打ち消しました。この困難を乗り越えなければならないと自分に言い聞かせました。自分に課した目標の大半をまだ達成できていない状況で、諦めることなんて出来ません。その時の決意とドクターの適切な処置のおかげで、私はより強くなってピッチに戻ることが出来たのです」

-重要な試合で敗れた時はどのような精神状態になりますか?

「敗戦で思い出されるのは、2014年にベトナムで開催された女子アジアカップのことです。最後の試合でタイに勝てばワールドカップ初出場という大一番。スタジアムはサポーターで埋め尽くされましたが、みんなの期待に応えることが出来ませんでした。試合終了のホイッスルが鳴り響いたとき、その場で倒れこむ者、泣き崩れる者、悔しさを露にする者、必死に涙をこらえる者もいました。期待に応えられず、サポーターを失望させてしまったことを、チーム全員がとても悲しく思っていました。大きな挫折でしたが、諦めずに這い上がる決意をした瞬間でもありました。そのためには、何が良くて、何がダメだったのかを知る必要があります。同じく2014年に開催されたアジア競技大会(ASIAD)ではタイと再戦し、今度は勝利して借りを返すことが出来ました」

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