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ベトナム:伝説のファンタジスタにして悪童 ファム・バン・クインを探して 第1回 父親への憎しみ

多くのアジアの国々と同様、ベトナムサッカー界にも、これまで多くのスター選手が誕生してきた。その中でも“英雄”と呼ばれたレ・コン・ビンはベトナム代表として歴代最多出場(83試合)、最多得点(51得点)の記録を打ち立てるなど国内サッカー史に名を刻む存在となった。多くのベトナム人ファンに「ベトナム史上最高の選手はだれか?」と訊けば、おそらくレ・コン・ビンの名が真っ先に挙がるだろう。しかし、「ベトナム史上、最も才能に溢れた選手は?」と訊けば、きっと別の名前が出てくるはずだ。

 彼の名はファム・バン・クイン。

 彼を形容する言葉はたくさんある。「神童」「天才」「ゴールデンボーイ」「ファンタジスタ」そして「悪童」。

 レ・コン・ビンと同じくゲアン省出身で、同年代を彩ったスター選手だが、その全盛期はあまりに短く、ピッチ外でのスキャンダルの方が有名なため、国外での評価は決して高いものではない。酒と煙草と女遊び、そして、彼自身が関わったとある大事件のせいで人生を大きく狂わせた。それでも、今なお多くのベトナム人が彼こそが「最も才能のある選手」と信じている。この連載では、伝説のファンタジスタにして悪童、ファム・バン・クインの生い立ちや人柄を本人や近しい人々の証言を交えながら紹介していく。

 父親のいない子。周囲からの陰口で反骨心を抱いた少年

 息子を身籠ったホー・ティ・ニエムさんは、周囲からの厳しい目にさらされ、疑われ、逃げるように嫁ぎ先から去らねばならなかった。生まれた息子バン・クインは、幼い頃から、父親のいない子と周囲に陰口を叩かれ、その日の食事にすら事欠く貧困の中で育った。

 ニエムさんが生まれ育ったゲアン省フングエン郡フンティエン村は、伝統的に農業を生業とする家庭が多かった。彼女は子供のころから農家を継ぐのが嫌で、学業に励み、省都ビン市で運送会社に就職した。30歳近くになったころ、建設現場に船で資材を運搬する男性と知り合って恋仲となった。

 「息子の父親は背が高く、やせていました。当時の私は、もう若くありませんでしたし、彼からの求婚をすぐ受け入れたのです。両家にも許可をもらい、正式に結婚しました。」

 夫婦はしばらく一緒に過ごし、間もなくニエムさんが妊娠。しかし、妊娠に気付かず重労働を続けていたので流産してしまう。もし無事に生まれていれば、バン・クインには兄か姉がいたかもしれない。

 流産から2年後、ニエムさんは2度目の妊娠。そうして生まれたのがファム・バン・クインだ。しかし、父親はニエムさんが2度目の妊娠をしたとき、自分の子供ではないと主張。

 「夫がなぜそう思ったのか分かりませんが、とにかく自分の子ではないと言い張りました。それから夫は大騒ぎして、親戚が集まる前で私が不義を働いたと責めました。謂れのない中傷に耐え切れず、私は家を出るしかありませんでした。」

 嫁ぎ先の家を追い出され、実家に戻ったニエムさんだったが、狭い村ではすぐに噂が広まり、不貞の女のレッテルを貼られてしまった。故郷に頼れる者もいない。一度流産していることもあり、お腹の子のため、極力体に気を付けることしかできなかったが、貧困で栄養のある食事をとることも難しかった。後にサッカーの天才と言われたバン・クインは1984429日、体重1800gという早産の未熟児でこの世に生を受けた。

 「息子が生まれたとき、握りこぶし程の大きさしかなく、彼はきっと生きられないと思い、涙がこぼれました。まともなおむつもなく、祖父が自分のシャツを破っておむつを作りました。栄養状態が悪かったせいか、母乳もほとんど出なかったので、村中を回って母乳を分けてもらいました。そうして彼は何とか一日を乗り越えました。」

 そんな惨めな生活が続き、ニエムさんは夫を恨みながら日々を過ごした。夫はニエムさんが妊娠中、既に別の女性と結婚。ニエムさんは息子が成長すると、「父親は亡くなった」と教え、息子もそれを信じていた。

 幼いバン・クインが父親について唯一知っていることと言えば、苗字がファムだということだけ。しかし、自我が芽生えるにつれて、周囲が自分をどう見ているのか気づき、父親への憎しみを募らせていった。

…続く

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