松沢呉一のビバノン・ライフ

不寛容な人々と不寛容な法律が支配する社会が到来する-ろくでなし子再逮捕 [8] – (松沢呉一) -3,774文字-

自分が使えない言葉を裁判所に使わせようとするおかしさ

 

vivanon_sentence「マンコ」という言葉は「チンコ」より抑圧されているのは事実、その不均衡を解消するためには、皆が堂々口にするようになればいいだけなのですから、ろくでなし子の主張を支持する人たちや、裁判所が「マンコ」という言葉を注意したことを批判したり、揶揄したり人たちはすぐさま「マンコ」を連発すればいい。そう前回書きました。本気です。

マンコに対するろくでなし子の主張と実践は、ウクライナのFEMENにも通じましょう。女が乳首を公共の場で出せないのは、女が抑圧されているからだとして、自ら乳首を出す。

ここまではなかなかできないですけど、「マンコ」はたかが言葉です。使えばいいだけ。こんなことで逮捕されるはずもなく。だったら、使いましょう。

「おまんこ」という言葉は抑圧されていて、女が自分の性器に対する呼称を使えないのは女そのものに対する抑圧だという主張は古くからあり、そういった主張を掲載した上野千鶴子の『女遊び』は当時ずいぶん話題になりました。

そんな大層に構えなくても、この本が出た頃には、私らの同世代の書き手、描き手が当たり前のように雑誌でマンコを連発していて、それぞれに闘いをしていたわけです。

私も雑誌「ブルータス」の原稿で「マンコ」を使い、会議が開かれたことがあります。

「編集長、マンコはどうなんでしょう」

「マンコかあ。マンコについては法務部に相談してみよう」

みたいな感じですかね。その結果、OKが出て、「ブルータス」史上初めて「マンコ」が掲載されています。「ユリイカ」も私が初マンコだったかもしれない。

「『おまんこ』という言葉は抑圧されている」といったメタな用法ではなく、「おまんこが臭い」「おまんこが濡れた」といったように、当たり前の言葉として使わない限り、生きた言葉にはならず、その点での最大の貢献者は上野千鶴子ではなく、漫画家の原律子じゃなかろうか。『女遊び』のはるか以前から自分の性器の呼称として連発してましたから。

女遊び「マンコ」という言葉の解放は日常的に使うことでしか解消されないのです。その考えに基づいた昨日の呼びかけでした。私のようにふだんから「チンコ」「マンコ」と書いているタイプ以外に私の呼びかけに呼応した人は見かけなかったですけど、そういう人たちが裁判所を批判するおかしさ。そのおかしさに気づけないおかしさ。

ゾーニング派の私は「マンコ」という言葉は場を選ぶため、裁判所がこの言葉を避けたがる意味は理解します。よって、この点については裁判所を批判しません。しかし、批判した人たちは使わなきゃダメでしょ。自分が使えないような言葉を裁判所には使わせろと求める。こんな理不尽な話はないわけで。

こういう人たちは、「マンコ」という言葉を使えないことの解消はお上がやるものだと思っているらしい。そんなはずはなくて、私らが積極的に使うようにしない限り、「マンコ」は使える言葉にならないのです。自分らで解消すべきことは自分らで解消しましょうよ。お上に頼まないと解決できないこともありますが、この場合は自分らの問題の方が大きい。

 

 

すべてを法律と国家権力に委ねる社会の到来

 

vivanon_sentence自分らがその責任を負っているのに、裁判所を批判できる人たちは、権力依存がひどすぎます。それを自覚できないくらいに、権力に依存している。自分自身では「権力批判をする自立した個人」などと思い込んでいられるのかもしれないですが、まったく違います。頭のなかがどっぷり権力に依存しているのです。ひとつ間違ったら在特会。ひとつくらい間違ってもそうはならないか。10個くらい間違えたら在特会。

お上に解決を委ねる体質、お上と自分を重ねる体質はもともと日本人の特性として強くあったものです。「依存体質」とまとめてもいいでしょう。それこそ『甘えの構造』以来、繰り返し指摘されてきたものですけど、こういう人たちがいよいよ増えていくのは時代の必然であるというのが以前から言っていることです。増えているわけではなく、表面に出やすくなっているとした方が正しいのかもしれないけれど。

「甘え」の構造 [増補普及版]なぜこの社会はこうも不寛容になり、こうも権力依存を強めてしまったのか。それについてはかつて「週刊プレイボーイ」のサイトでクラブの摘発と風営法にからめてまとめて語っていますので、こちらを参照のこと。タイトルが妙ですが、気にしないでください。長いのを読むのが苦手な方は最後の方だけ読めばいいと思います。

それまで容認されてきたクラブが摘発されるようになったのはいくつかの事情が重なっているのだと思われますが、何もかもを通報し、何もかもを警察と法律に頼る社会に向かっているこの国の変化がおそらく関係しています。コミュニティが問題を解決できなくなった時代において、これは必然だったのだと思います。

共通のルールが法律だけになりつつあり、解決をするのは警察や裁判所になる。なあなあで解決するグレーな部分を残さず、厳密な法の適用をする社会が到来する。これは避けられない。というか、それが進行していることに気づけなくなっているくらいに現実のものになってます。

であるなら、法をゆるやかにしておかないと、誰もが逮捕されかねない社会になります。

 

 

next_vivanon

(残り 1433文字/全文: 3661文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ