明治の風景画に見る写真と絵画の関係… ロバート・F・ブルームの絵を読む -後半- [ビバノン循環湯 10](松沢呉一) -4,606文字-
ブルームの後半です。 読んでいない方は前半から。
なぜブルームの絵は中心点がボケているのか
もう一度「飴屋」。
飴細工を作る飴屋を覗きこむ女の子たちの表情のリアルさに息を飲む。それを見る私の顔もまたあの子たちみたいな表情に違いない。
背の高い子は13,4歳、手前と左の子は10歳くらいか。自分の弟、妹の子守をしているのだろうが、もしかすると子守として働いているのかもしれない。なんにせよ、裕福な家庭の子たちではないだろう。両親は働いていて、子守をする女中もいない。それでも着物がきれい。
背の高い子の襟元を見ると、青い色が覗いている。こんな小さな子でも色つきの襦袢である。
こういった絵を見て、ひとつひとつ納得していく作業も楽しいのだが、私が好きな絵はリアルな一連の作品ではなく、たとえば「オレンジ色の着物」。
歴史的な資料としての価値から離れると、この絵の方が艶やかであり、焦点がはっきりしている。絵はリアルに描き込みすぎると散漫になる。その点、この絵は桜と女だけがそこに存在している。美人だったらよりよかったのだが。
この絵は屋外ではなく、室内で女を描いて桜を加えたものではないか。昔の着物の着付けはしばしばだらしがなく見えるが、いくらなんでもこれはだらしがなさすぎる。
それはともかく帯留めも帯揚げもしっかり描いていて、お端折りもこの時代らしいモワモワした状態になっている。明治末期まではこれが最先端。ブルームはホントによく着物の構造を理解した上で絵を描いていたことがわかる。
当時の日本人としてはスタイルがよすぎるようでもあって、この絵の場合は、記録のリアリティより、絵画としての美を求めている。
それに比して、写実的な「飴屋」「東京の花市場」「絹商人」は、そのリアルさや表現力に感心し、記録としての価値を見出しやすいが、絵としてはイマイチ魅力がない。
何がいけないのかと言えば、細かく描き込み過ぎなだけじゃなく、構図が面白くないのだ。
「飴屋」で言うと、手前に背中を向けた女の子がいる。この子はいらんと思う。この子を消して、もっと飴屋に近づくか、角度を飴屋の斜め前くらいにした方がさらに表情が見えてよかったはず。これでは見たいものがよく見えない。
「東京の花市場」は構図はいいとして、手前の男の顔がもうちょっと見えていた方がいい。目は確実にそこに行くのに、顔がよくわからず、すかされた気分になる。
どれも絵としての中心点がボケている。どうして、こうなったのか。
ブルームの描く日本語に注目
なぜブルームはああもリアルに明治の街角を描くことができたのか。そして、どうしてそれらのリアルな絵は今ひとつのところで、絵としての面白みがないのか。
おそらくブルームの作品のいくつかは写真を元に描かれている。たぶんあまり指摘している人はいないと思うが、いくつかの点からそう推測できるのである。
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