松沢呉一のビバノン・ライフ

田村泰次郎によるパンパン・インタビュー-雑誌「りべらる」より[ビバノン循環湯 16] 松沢呉一 -3,333文字-

「田村泰次郎著『肉体の門』に見るパンパンの実像」を出したのを契機に、自分の書いたものを「田村泰次郎」で検索したら、「りべらる」の記事がひっかかりました。全然覚えていなかったのですが、新宿のパンパン2名に田村泰次郎が話を聞いたもの。 狩り込みが始まる前には、警察とパンパンは協力体制にあったとの証言が貴重かと思います。規制する法律ができると、パンパンの自助グループは崩壊し、暴力団の庇護を求めるしかなくなっていくわけです。「人権侵害だ」としながら、赤線を潰し、暴力団の支配を進めた構図と同じです。暴力団支配がどこからどう進行していったのかについての原稿はまたそのうち出すとしましょう。

この号では、モデル時代の淡谷のり子についての評も貴重。淡谷のり子はすごい人だったのですよ。これについても書いたものがいくつかありますので、またそのうち。

「りべらる」はホントにいい雑誌です。「りべらる」について書いたものは今後も繰り返し循環させる予定。

該当号の表紙がすぐには見つからないので、仮でその頃の号を出しておき、見つかったら差し替えます。

 

 

「りべらる」昭和23年2月号 第3巻第2号IMG_2598

発行所:太虚堂書房
発行日:昭和23年3月1日
体裁:B5 36ページ
表紙画:中尾通
定価:25円

 

 

vivanon_sentence岩田専太郎の口絵に続いて、カラー印刷ページに「夜の女の生態」が出ている。『肉体の門』をイメージした中尾進のカットがついているのだが、絵がいつもより下手。締切に追われてやっつけで描いたのか。

これは田村泰次郎が、宿(ジュク)のお政(三一)、夜桜のおなみ(二二)の二人のパンパンに話を聞いたもの。おなみは上野のパンパン。

お政は新宿で飲み屋をやっていて、そこで男ができたが、相手は堅気ではなく、警察に引っ張られてしまい、金が必要になってパンパンに。これはこの座談会の前年のことだが、その段階で「パンスケといふものは三人しかゐなかった」と言っている。

たしかにパンパンと言えば上野の地下道から始まるジキパン系、有楽町や新橋、立川などの洋パン系がよく知られ、新宿、渋谷、池袋は時期が少しズレるのだが、昭和二十二年の段階で三人というのは少なすぎる。この号は二月号のため、座談会は前年行われた可能性もあって、昭和二十一年の前半であれば、三人しかいなかったのも納得できる。

この記事の時点では新宿は四十人ほどになっているとあって、上野は【ちょっとわかりません】とのこと。範囲が広く、出入りが激しいためだ。それでも組織化されていたはずだが、おなみが言うように、上野は素人の参入も多くて、組織率が低かったのだろう。

お政がリーダーになった経緯は以下。

 

 

お政:(略)それから間もなく代々木にパンスケ殺しがあってね。そのとき警察から来たんです。いろいろ事件があると困るからパンスケの台帳をこさへておいてくれって。つまりパンスケの本籍と名前を控へておいてくれってわけなんですよ。さあさうなると責任があるでせう。駅なんかにゐて、ちょっと変だと思ふと、あんた何待ってるの。こう訊くんですよ。そうすると中にはパンスケしてますとは言はないけれども、私ねえ……。言葉が濁ると私もうそうだと思ふんです。中には間違へて、ぶん殴られたこともあります。横合いからおやぢさんが出てきてこの野郎、俺のおかあをつかまえてパンスケたぁ何だ(笑声)。

 

 

この頃は戦前の法律が失効して臨検がなくなり、かつ条例も性病予防法もなかったために臨検はまだ復活せず、狩り込みもなく、警察は取り締まることができなかったはず。警察としては管理もしたかったろうが、ここにあるように、当時、パンパンは多数殺害されており、強盗の被害も多かった。そのために協力体制にあって、警察をバックにしてパンパンの組織化がなされた模様。

 

 

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