松沢呉一のビバノン・ライフ

われ弱ければ人のせい-矢島楫子と矯風会(ロングヴァージョン)[ビバノン循環湯 36] (松沢呉一) -33,667文字-

今回の「ビバノン循環湯」はムチャ長いです。初の3万字越えです。分けて読みやすくなるようなものでもないので、一度に出します。全部読むのが面倒な人、有料登録していない人は、こちらをお読みください(長い間、無料公開してきたので、もういいかというので、あちらは公開を終了しました)。

もともとこの原稿はメルマガで何度かにわたって配信。そのダイジェストをブログで公開。ダイジェストもずいぶんアクセスがあったのですが、オリジナルからエピソードごとカットしているため、できればロングヴァージョンを読んでいただきたい。さらに今回加筆をして、当時、矯風会がどのように見られていたのかがよくわかる平塚らいてうの言葉を取り上げておきました。矯風会の活動は婦人運動とは無関係の宗教的通俗道徳運動でしかないと喝破し、ほとんど全否定しています。

「売防法を制定し、維持してきた勢力が売防法改正を言い出した意図を見抜け」に書いたように、この人たちが今回売防法改正に動いているわけです。繰り返しますが、人権のためではなく、宗教的信念のためです。本文に出ているように、彼らは、戦前、完全な一夫一婦制を求めて、男にも姦通罪を適用すべく政府に請願書を出しています。婚姻外セックスの禁止が彼らの目標であり、おそらく今もその方針は変わっていないと思います。

戦中は軍部に積極的に協力し、戦後は純潔運動にも関与。統一教会や幸福の科学みたいなものですし、米国においてプライドパレードに反対しているようなキリスト教団体の仲間です。矯風会にせよ、救世軍にせよ、同性婚には反対だと思いますよ。

なお、「矢島」とするのが一般的であり、タイトルも「矢島」としましたが、三浦綾子の著書では「矢嶋」になっています。引用部分と地の部分で漢字が違うのは落ち着きが悪いので、本文では「矢嶋」としてます。

 

 

 

三浦綾子著『われ弱ければ』が描く矢嶋楫子の実像

 

vivanon_sentence三浦綾子著『われ弱ければ—–矢嶋楫子伝』(小学館/1989)は、同じキリスト教徒としての思い込みから、サイテーの人間を最大限擁護しようとした本だ。

矢嶋楫子は私が書くものにはたびたび出てくる名前だが、日本キリスト教婦人矯風会(以下、「矯風会」の初代会頭である。三浦綾子による無理矢理な擁護をもってしても、矢嶋楫子の偽善に満ちた生き様は隠すことができず、本書を読んでたびたび怒りを感じた。その怒りは、矢嶋楫子だけでなく、矢嶋楫子を擁護する三浦綾子にも向く。あのような人物のすべてを擁護しわれ弱ければ―矢嶋楫子伝 (小学館文庫)ようとすれば、擁護する人物が矢嶋楫子と同種の人物であることを明らかにするだけだ。

しかし、三浦綾子の擁護があまりに薄っぺらで、「アホだな、この人」と透けて見え、まっとうな読解力がある人なら、矢嶋楫子がどれだけいかがわしい人間かが素直に読み取れるようになっていて、「いい仕事しましたね」って墓参りをして手を合せたくもなる。Amazonのレビューを見ると、まっとうな読解力のある人は一人も書き込んでいないようだが。

矢嶋楫子は、矯風会の初代会頭であったのだから、ロクな人間ではないとの先入観がこちらにあることは否定しない。しかし、そうじゃなかったとしても、私はこの本からにじみ出る矢嶋楫子の生き方を肯定できず、この上ない嫌悪感を抱いただろう。

戦前の矯風会の活動が社会に貢献したことがゼロとは言わない。初代の代表だった矢嶋楫子の行動も同じく評価すべき点がゼロとは言わない。たとえば廃娼運動によって遊廓の環境がよりよくなった側面はある。しかし、公娼制度を肯定した上で労働環境の改善を求めた方がはるかに効率よく働く女たちの生活は向上したはずだし、事実、そういう主張をした論者もいた。

矢嶋楫子の社会運動は、それ自体が目的ではなく、矢嶋楫子自身の問題を社会に投影した自己欺瞞でしかないことを本書を読むとよくわかろうかと思う。遊廓の環境改善がもたらされたのだとしても、それはたまたまの結果にしか過ぎない。それをもって矢嶋楫子を肯定するのは、ある人物を刺したことで、その一家の結束が強まったことをもって、刺した犯人が「どうだ、家族が仲良くなってよかったな」と居直るようなものである。

矢嶋楫子の体質が矯風会にはそのまま受け継がれていて、戦後は売防法制定に邁進して、彼女らのつながりも仕事も生活も潰したことはご存知の通り。彼女らのためにと言いながら、女たちが組合を作って活動を始めると、これを敵視し、夫婦維持のための売防法であることを隠さなくなる。それまで言っていたことはすべてウソってわけだ。

矯風会が平気でウソをつく人たちの集団であることも矢嶋楫子の言動を見ればよくわかろう。

 

 

vivanon_sentence では、まずは矢嶋楫子のざっくりとした経歴をお読みいただきたい。

 

天保4年(1833) 肥後(熊本県)で生まれた。東京に出てくるまでの名前は「かつ」だが、以下、楫子で統一する。
妹の久子は徳富家に嫁ぎ、徳富蘇峰(猪一郎)、徳富蘆花(健次郎)を生んでいる。つまり、彼らは楫子の甥に当たる。

安政4年(1858) 25歳で結婚。相手は兄から紹介された林七郎という武士で2度の離婚歴があった。

明治元年(1868年) 林七郎は酒乱で、それに耐えかねて、自ら離縁。当時、妻からの離縁はありえなかったため、一族からも非難される。
この時、先妻との子ども以外に、夫との間に3名の子どもがいたが、うち末っ子の達子のみ連れて家を出ている。この達子とともに、楫子は妹の家を転々とする。

明治5年(1872) 議員になっていた兄の直方が病気で倒れたことを契機に、達子を置いて上京し、そのまま東京に居着き、学校に通ったのちに教員となる。
東京に出てきて間もなく、兄の家で書生をしていた鈴木要介と肉体関係になる。鈴木要介は、東北出身で、楫子より10歳近く年下。故郷に妻子がいて、楫子もそれを知ってのことである。

明治9年(1876) 人目を忍んで4年間関係を続けていたが、43歳で妊娠。楫子は堕胎しようとするが、要介の希望で産むことに。

明治10年(1877) 要介は「ともに故郷に帰り、妾として戸籍登録をする」と申し出るが、楫子は断わり、仮病を使って学校を休み、練馬村で隠れて出産。子どもの妙子を農家に預けたまま、楫子はそのことを隠して教師を続けた。

明治11年(1878) クリスチャンの米人教育者マリア・ツルーによって設立された新栄女学校の校長に就任。

明治12年(1879) 自らの不注意により、煙草でボヤを出したのを契機に煙草をやめ、洗礼を受ける。スクリーンショット(2015-02-14 4.25

明治17年(1884) 兄の直方の子どもの四郎を引き取るのと同時に、七郎との子どもの達子、要介との子どもの妙子を引き取る。

明治19年(1886) 東京キリスト教婦人矯風会を設立し、初代会長に。

明治23年(1890) 桜井女学校と新栄女学校が合併して女子学院になり、楫子が初代院長に。

明治26年(1893) 日本キリスト教婦人矯風会を設立して初代会頭に就任して、本格的に禁酒運動、廃娼運動に取り組む。

大正14年(1925) 死去。享年93。

以上は、三浦綾子著『われ弱ければ』と守屋東編著『矢島楫子』(婦人新報社/大正12年)の記述をもとにしたもので、必ずしも年号や年齢が記載されているわけではないので、若干の前後があるかもしれない。

なお、右上の写真は『矢島楫子』に掲載されていたもの(以下同)。中央が矢島楫子、右が守屋東。

 

 

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