松沢呉一のビバノン・ライフ

過敏な人を基準に共通ルールを作ることの誤り-見たくない人は見なくていい。しかし…(松沢呉一)-3,547文字-

 「人質の遺体写真と原爆の遺体写真はどこが違うのか-小学生に見られるものと見せられないもの」「遺体写真を生徒に見せたことの問題はどこにあったのかを改めて考える」「人質の遺体写真を見せた小学校教諭を叩いた人々への質問」「ロサンゼルス警察による射殺動画を観る」の続きです。

 

 

 

残酷な事件に向き合うことを拒否して法学を学べるのか?

 

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「前提を共有することを拒否する人々は社会参加を一定制限されても仕方がない」とここまで何度か書いてきました。

その適切なサンプルが私が監修したナディーン・ストロッセン著『ポルノグラフィ防衛論』に出ています。長くなりますが、以下に引用しておきます。

 

 一九九九年にコロンビア大学ロー・スクールで起こったある事例を考察してみよう。(略)必修科目であるフレッチャーの刑法入門講座では、実在の重要事件について討議をし、それに基づいて四八時間以内に提出する宿題形式のテストを実施した。(略)

問題となった設問は、女性の意思ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性に反して悪意を持って胎児を殺害する堕胎の問題を扱っている。女性の権利や安全を擁護する人々にとっては深刻な関心事であることは確かだ。しかし、さまざまな学生や教職員は、この質問は女性にとって「不快」、「無神経」、「女性嫌悪」、「強迫的」、「権力の乱用」であると批判した。(略)リーブロン学部長は、「コロンビア大学ロー・スクールを代表して、多くの人が経験した不快感、苦痛に対し遺憾の意を表したい」と述べている。

一部の苦情は、試験の内容よりもその「論調」に向けられていたが、一方、中絶や女性に対する偏見に基づく犯罪など、女性が特別に関心を持つ問題は試験問題として取り上げるべきではないと指摘するものもいた。このような基準から言えば、私は、女子学生たちに対して、敵対的環境を作った罪を認めねばならないだろう。私は一九九九年秋の憲法講義の最終試験で、〝女性に対する暴力法〈the Violence Against Women Act〉〟に関する問題を出題した。この法律は、二〇〇〇年一月、最高裁判所においてその合憲性(違憲性)が論じられた。下級裁判所の意見書や弁護士の弁論趣意書は、女性に対する性差別的な性的暴力が詳細に赤裸々に書かれており、私はその一部を読むことを学生に課したのである。

私は、ロー・スクールの同僚やその他の人々とフレッチャー論争について話し合ったが、言論の自由や女性の権利擁護論者を含む彼らは、フレッチャーがこのような試験問題を出題したことに対して咎めを受けるのは適切であると考えていた。フレッチャーには、教室を含むその他公開の場において、試験の課題を選ぶ自由があったことは彼らも認めている。しかしながら、彼らの考えでは、試験とは、学生が非常に弱い立場に置かれる状況であり、教授は学生を不公平または不平等に扱うことのないように特に慎重にならなければならない。私も、確かにこの原則に同意はするが、試験問題に性的虐待、女性への暴力、中絶およびその他女性特有の問題が含まれているからと言って、必ずしもそれが女性の権利を侵害していることにはならないと思う。

スクリーンショット(2015-03-05 18.22.43)このような状況は、言論の自由や学問の自由を危機的な状況に追い込むだけでなく、女性の尊厳や平等すらも危機にさらすことになるのである。ロー・スクールの女子学生が、このような犯罪の描写を要約したものですら直視することができないほどか弱いというのであれば、果たして彼女たちは、女性や妊婦への攻撃者を訴えたリンダ・フェアシュタインやその他指導者たちが経てきた道を辿り、訓練を受けることができるというのだろうか? 法廷において加害者と直接対決することができるのだろうか? 女性は、警官になって街で実際の襲撃者や加害者になりそうな人間と対峙する能力が劣っているというのだろうか? 実際に、ある女子学生はフレッチャー教授に、フレッチャー教授に与えられ課題のために強姦に関する訴訟のファイルを大量に分析したことが、夏休みのアルバイトに非常に役に立ったと伝えたのである。

フレッチャーを批判する人々が主張する意見は、広い意味での女性の平等や権利拡大に矛盾し、家父長的—もしくは母性的—保護主義を帯びている。フレッチャー試験論争に関して、コロンビア大学ロー・スクールの二人の女子学生が大学新聞に宛てた手紙でこの点を強調している。

女性の扱いに特別な気遣いを要求するということは、女性は小さくか弱い存在で、不快なことを聞くことに耐えることも、男性にとってはごく普通の苦難に対処することもできないと暗に言われている様なものである。これこそが、女性に対する侮辱だ。性差別主義が横行する法曹界に女性が進出していくためには、女性をまったく対等な相手として遇し、平等の利点だけでなく重荷をもひるまず与えることが、最良の方法なのである。

 

 

「かよわい女」を固定する発想は女に対する侮辱である

 

vivanon_sentenceわかりにくいでしょうから、まとめ直すと、コロンビア大学のロースクールで残酷な内容の事件をテーマにした課題が出されたことに対して、「女子学生に対する敵対的環境を作ったハラスメントである」という非難が起きます。

それに対して、著者のナディーン・ストロッセン(ロースクールの教授である女性)は、自分自身の授業も同様の非難をされることになるとして、その非難は女性の平等や権利拡大に反し、家父長制に基づく価値を強化するものだと批判。また、これに対してはコロンビア大学の別の女子学生たちからも反発があり、そのような設問が女子学生には向かないと決めつけることこそが女性に対する侮辱であり、機会を奪うことであると指摘します。

 

 

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